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一、午后の授業

「ではみなさんは、さういふふうに川だと云<い>はれたり、乳の流れたあとだと云はれたりしてゐたこのぼんやりと白いものがほんたうは何かご承知ですか。」先生は、黒板に吊した大きな黒い星座の図の、上から下へ白くけぶった銀河帯のやうなところを指しながら、みんなに問をかけました。

カムパネルラが手をあげました。それから四五人手をあげました。ジョバンニも手をあげようとして、急いでそのまゝやめました。たしかにあれがみんな星だと、いつか雑誌で読んだのでしたが、このごろはジョバンニはまるで毎日教室でもねむく、本を読むひまも読む本もないので、なんだかどんなこともよくわからないといふ気持ちがするのでした。

ところが先生は早くもそれを見附けたのでした。

「ジョバンニさん。あなたはわかってゐるのでせう。」

ジョバンニは勢よく立ちあがりましたが、立って見るともうはっきりとそれを答へることができないのでした。ザネリが前の席からふりかへって、ジョバンニを見てくすっとわらひました。ジョバンニはもうどぎまぎしてまっ赤になってしまひました。先生がまた云ひました。

「大きな望遠鏡で銀河をよっく調べると銀河は大体何でせう。」

やっぱり星だとジョバンニは思ひましたがこんどもすぐに答へることができませんでした。

先生はしばらく困ったやうすでしたが、眼<め>をカムパネルラの方へ向けて、
「ではカムパネルラさん。」と名指しました。するとあんなに元気に手をあげたカムパネルラが、やはりもぢもぢ立ち上ったまゝやはり答へができませんでした。

先生は意外なやうにしばらくじっとカムパネルラを見てゐましたが、急いで「では。よし。」と云ひながら、自分で星図を指しました。

「このぼんやりと白い銀河を大きないゝ望遠鏡で見ますと、もうたくさんの小さな星に見えるのです。ジョバンニさんさうでせう。」

ジョバンニはまっ赤になってうなづきました。けれどもいつかジョバンニの眼のなかには涙がいっぱいになりました。さうだ僕は知ってゐたのだ、勿論<もちろん>カムパネルラも知ってゐる、それはいつかカムパネルラのお父さんの博士のうちでカムパネルラといっしょに読んだ雑誌のなかにあったのだ。それどこでなくカムパネルラは、その雑誌を読むと、すぐお父さんの書斎から巨<おほ>きな本をもってきて、ぎんがといふところをひろげ、まっ黒な頁<ページ>いっぱいに白い点々のある美しい写真を二人でいつまでも見たのでした。それをカムパネルラが忘れる筈<はず>もなかったのに、すぐに返事をしなかったのは、このごろぼくが、朝にも午后にも仕事がつらく、学校に出てももうみんなともはきはき遊ばず、カムパネルラともあんまり物を云はないやうになったので、カムパネルラがそれを知って気の毒がってわざと返事をしなかったのだ、さう考へるとたまらないほど、じぶんもカムパネルラもあはれなやうな気がするのでした。

先生はまた云ひました。

「ですからもしもこの天の川がほんたうに川だと考へるなら、その一つ一つの小さな星はみんなその川のそこの砂や砂利の粒にもあたるわけです。またこれを巨<おほ>きな乳の流れと考へるならもっと天の川とよく似てゐます。つまりその星はみな、乳のなかにまるで細かにうかんでゐる脂油の球にもあたるのです。そんなら何がその川の水にあたるかと云ひますと、それは真空といふ光をある速さで伝へるもので、太陽や地球もやっぱりそのなかに浮んでゐるのです。つまりは私どもも天の川の水のなかに棲<す>んでゐるわけです。そしてその天の川の水のなかから四方を見ると、ちゃうど水が深いほど青く見えるやうに、天の川の底の深く遠いところほど星がたくさん集って見えしたがって白くぼんやり見えるのです。この模型をごらんなさい。」

先生は中にたくさん光る砂のつぶの入った大きな両面の凸<とつ>レンズを指しました。

「天の川の形はちゃうどこんななのです。このいちいちの光るつぶがみんな私どもの太陽と同じやうにじぶんで光ってゐる星だと考へます。私どもの太陽がこのほゞ中ごろにあって地球がそのすぐ近くにあるとします。みなさんは夜にこのまん中に立ってこのレンズの中を見まわすとしてごらんなさい。こっちの方はレンズが薄いのでわずかの光る粒即ち星しか見えないのでせう。こっちやこっちの方はガラスが厚いので、光る粒即ち星がたくさん見えその遠いのはぼうっと白く見えるといふこれがつまり今日の銀河の説なのです。そんならこのレンズの大きさがどれ位あるかまたその中のさまざまの星についてはもう時間ですからこの次の理科の時間にお話します。では今日はその銀河のお祭なのですからみなさんは外へでてよくそらをごらんなさい。ではこゝまでです。本やノートをおしまひなさい。」

そして教室中はしばらく机の蓋<ふた>をあけたりしめたり本を重ねたりする音がいっぱいでしたがまもなくみんなはきちんと立って礼をすると教室を出ました。

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二、活版所

ジョバンニが学校の門を出るとき、同じ組の七八人は家へ帰らずカムパネルラをまん中にして校庭の隅<すみ>の桜の木のところに集まってゐました。それはこんやの星祭に青いあかりをこしらえて川へ流す烏瓜<からすうり>を取りに行く相談らしかったのです。

けれどもジョバンニは手を大きく振ってどしどし学校の門を出て来ました。すると町の家々ではこんやの銀河の祭りにいちゐの葉の玉をつるしたりひのきの枝にあかりをつけたりいろいろ仕度をしてゐるのでした。

家へは帰らずジョバンニが町を三つ曲ってある大きな活版処にはひってすぐ入口の計算台に居ただぶだぶの白いシャツを着た人におじぎをしてジョバンニは靴<くつ>をぬいで上りますと、突き当りの大きな扉<と>をあけました。中にはまだ昼なのに電燈がついてたくさんの輪転器がばたりばたりとまはり、きれで頭をしばったりラムプシェードをかけたりした人たちが、何か歌ふやうに読んだり数へたりしながらたくさん働いて居<を>りました。

ジョバンニはすぐ入口から三番目の高い卓子<テーブル>に座った人の所へ行っておじぎをしました。その人はしばらく棚<たな>をさがしてから、
「これだけ拾って行けるかね。」と云ひながら、一枚の紙切れを渡しました。ジョバンニはその人の卓子<テーブル>の足もとから一つの小さな平たい函<はこ>をとりだして向ふの電燈のたくさんついた、たてかけてある壁の隅<すみ>の所へしゃがみ込むと小さなピンセットでまるで粟粒<あはつぶ>ぐらゐの活字を次から次と拾ひはじめました。青い胸あてをした人がジョバンニのうしろを通りながら、
「よう、虫めがね君、お早う。」と云ひますと、近くの四五人の人たちが声もたてずこっちも向かずに冷くわらひました。

ジョバンニは何べんも眼を拭<ぬぐ>ひながら活字をだんだんひろひました。

六時がうってしばらくたったころ、ジョバンニは拾った活字をいっぱいに入れた平たい箱をもういちど手にもった紙きれと引き合せてから、さっきの卓子<テーブル>の人へ持って来ました。その人は黙ってそれを受け取って微<かす>かにうなづきました。

ジョバンニはおじぎをすると扉をあけてさっきの計算台のところに来ました。するとさっきの白服を着た人がやっぱりだまって小さな銀貨を一つジョバンニに渡しました。ジョバンニは俄<には>かに顔いろがよくなって威勢よくおじぎをすると台の下に置いた鞄<かばん>をもっておもてへ飛びだしました。それから元気よく口笛を吹きながらパン屋へ寄ってパンの塊を一つと角砂糖を一袋買ひますと一目散に走りだしました。

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三、家

ジョバンニが勢よく帰って来たのは、ある裏町の小さな家でした。その三つならんだ入口の一番左側には空箱に紫いろのケールやアスパラガスが植ゑてあって小さな二つの窓には日覆ひが下りたまゝになってゐました。

「お母さん。いま帰ったよ。工合<ぐあひ>悪くなかったの。」ジョバンニは靴をぬぎながら云ひました。

「あゝ、ジョバンニ、お仕事がひどかったらう。今日は涼しくてね。わたしはずうっと工合がいゝよ。」

ジョバンニは玄関を上って行きますとジョバンニのお母さんがすぐ入口の室<へや>に白い巾<きれ>を被って寝<やす>んでゐたのでした。ジョバンニは窓をあけました。

「お母さん。今日は角砂糖を買ってきたよ。牛乳に入れてあげようと思って。」

「あゝ、お前さきにおあがり。あたしはまだほしくないんだから。」

「お母さん。姉さんはいつ帰ったの。」

「あゝ三時ころ帰ったよ。みんなそこらをしてくれてね。」

「お母さんの牛乳は来てゐないんだらうか。」

「来なかったらうかねえ。」

「ぼく行ってとって来よう。」

「あゝあたしはゆっくりでいゝんだからお前さきにおあがり、姉さんがね、トマトで何かこしらえてそこへ置いて行ったよ。」

「ではぼくたべよう。」

ジョバンニは窓のところからトマトの皿をとってパンといっしょにしばらくむしゃむしゃたべました。

「ねえお母さん。ぼくお父さんはきっと間もなく帰ってくると思ふよ。」

「あゝあたしもさう思ふ。けれどもおまへはどうしてさう思ふの。」

「だって今朝の新聞に今年は北の方の漁は大へんよかったと書いてあったよ。」

「あゝだけどねえ、お父さんは漁へ出てゐないかもしれない。」

「きっと出てゐるよ。お父さんが監獄へ入るやうなそんな悪いことをした筈<はず>がないんだ。この前お父さんが持ってきて学校へ寄贈した巨<おほ>きな蟹<かに>の甲らだのとなかいの角だの今だってみんな標本室にあるんだ。六年生なんか授業のとき先生がかはるがはる教室へ持って行くよ。一昨年修学旅行で〔以下数文字分空白〕

「お父さんはこの次はおまへにラッコの上着をもってくるといったねえ。」

「みんながぼくにあふとそれを云ふよ。ひやかすやうに云ふんだ。」

「おまへに悪口を云ふの。」

「うん、けれどもカムパネルラなんか決して云はない。カムパネルラはみんながそんなことを云ふときは気の毒さうにしてゐるよ。」

「あの人はうちのお父さんとはちゃうどおまへたちのやうに小さいときからのお友達だったさうだよ。」

「あゝだからお父さんはぼくをつれてカムパネルラのうちへもつれて行ったよ。あのころはよかったなあ。ぼくは学校から帰る途中たびたびカムパネルラのうちに寄った。カムパネルラのうちにはアルコールラムプで走る汽車があったんだ。レールを七つ組み合せると円くなってそれに電柱や信号標もついてゐて信号標のあかりは汽車が通るときだけ青くなるやうになってゐたんだ。いつかアルコールがなくなったとき石油をつかったら、罐<かま>がすっかり煤<すす>けたよ。」

「さうかねえ。」

「いまも毎朝新聞をまはしに行くよ。けれどもいつでも家中まだしぃんとしてゐるからな。」

「早いからねえ。」

「ザウエルといふ犬がゐるよ。しっぽがまるで箒<はうき>のやうだ。ぼくが行くと鼻を鳴らしてついてくるよ。ずうっと町の角までついてくる。もっとついてくることもあるよ。今夜はみんなで烏瓜<からすうり>のあかりを川へながしに行くんだって。きっと犬もついて行くよ。」

「さうだ。今晩は銀河のお祭だねえ。」

「うん。ぼく牛乳をとりながら見てくるよ。」

「あゝ行っておいで。川へははひらないでね。」

「あゝぼく岸から見るだけなんだ。一時間で行ってくるよ。」

「もっと遊んでおいで。カムパネルラさんと一緒なら心配はないから。」

「あゝきっと一緒だよ。お母さん、窓をしめて置かうか。」

「あゝ、どうか。もう涼しいからね」

ジョバンニは立って窓をしめお皿やパンの袋を片附けると勢よく靴<くつ>をはいて
「では一時間半で帰ってくるよ。」と云ひながら暗い戸口を出ました。

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四、ケンタウル祭の夜

ジョバンニは、口笛を吹いてゐるやうなさびしい口付きで、檜<ひのき>のまっ黒にならんだ町の坂を下りて来たのでした。

坂の下に大きな一つの街燈が、青白く立派に光って立ってゐました。ジョバンニが、どんどん電燈の方へ下りて行きますと、いままでばけもののやうに、長くぼんやり、うしろへ引いてゐたジョバンニの影ぼふしは、だんだん濃く黒くはっきりなって、足をあげたり手を振ったり、ジョバンニの横の方へまはって来るのでした。

(ぼくは立派な機関車だ。ここは勾配<こうばい>だから速いぞ。ぼくはいまその電燈を通り越す。そうら、こんどはぼくの影法師はコムパスだ。あんなにくるっとまはって、前の方へ来た。)

とジョバンニが思ひながら、大股<おほまた>にその街燈の下を通り過ぎたとき、いきなりひるまのザネリが、新しいえりの尖<とが>ったシャツを着て電燈の向ふ側の暗い小路<こうぢ>から出て来て、ひらっとジョバンニとすれちがひました。

「ザネリ、烏瓜ながしに行くの。」ジョバンニがまださう云ってしまはないうちに、
「ジョバンニ、お父さんから、らっこの上着が来るよ。」その子が投げつけるやうにうしろから叫びました。

ジョバンニは、ばっと胸がつめたくなり、そこら中きぃんと鳴るやうに思ひました。

「何だい。ザネリ。」とジョバンニは高く叫び返しましたがもうザネリは向ふのひばの植った家の中へはひってゐました。

「ザネリはどうしてぼくがなんにもしないのにあんなことを云ふのだらう。走るときはまるで鼠<ねずみ>のやうなくせに。ぼくがなんにもしないのにあんなことを云ふのはザネリがばかなからだ。」

ジョバンニは、せはしくいろいろのことを考へながら、さまざまの灯や木の枝で、すっかりきれいに飾られた街を通って行きました。時計屋の店には明るくネオン燈がついて、一秒ごとに石でこさへたふくろふの赤い眼が、くるっくるっとうごいたり、いろいろな宝石が海のやうな色をした厚い硝子<ガラス>の盤に載って星のやうにゆっくり循<めぐ>ったり、また向ふ側から、銅の人馬がゆっくりこっちへまはって来たりするのでした。そのまん中に円い黒い星座早見が青いアスパラガスの葉で飾ってありました。

ジョバンニはわれを忘れて、その星座の図に見入りました。

それはひる学校で見たあの図よりはずうっと小さかったのですがその日と時間に合せて盤をまはすと、そのとき出てゐるそらがそのまゝ楕円形<だゑんけい>のなかにめぐってあらはれるやうになって居りやはりそのまん中には上から下へかけて銀河がぼうとけむったやうな帯になってその下の方ではかすかに爆発して湯気でもあげてゐるやうに見えるのでした。またそのうしろには三本の脚のついた小さな望遠鏡が黄いろに光って立ってゐましたしいちばんうしろの壁には空ぢゅうの星座をふしぎな獣や蛇<へび>や魚や瓶<びん>の形に書いた大きな図がかかってゐました。ほんたうにこんなやうな蝎<さそり>だの勇士だのそらにぎっしり居るだらうか、あゝぼくはその中をどこまでも歩いて見たいと思ってたりしてしばらくぼんやり立って居ました。

それから俄<には>かにお母さんの牛乳のことを思ひだしてジョバンニはその店をはなれました。そしてきゅうくつな上着の肩を気にしながらそれでもわざと胸を張って大きく手を振って町を通って行きました。

空気は澄みきって、まるで水のやうに通りや店の中を流れましたし、街燈はみなまっ青なもみや楢<なら>の枝で包まれ、電気会社の前の六本のプラタヌスの木などは、中に沢山の豆電燈がついて、ほんたうにそこらは人魚の都のやうに見えるのでした。子どもらは、みんな新らしい折のついた着物を着て、星めぐりの口笛を吹いたり、
「ケンタウルス、露をふらせ。」と叫んで走ったり、青いマグネシヤの花火を燃したりして、たのしさうに遊んでゐるのでした。けれどもジョバンニは、いつかまた深く首を垂れて、そこらのにぎやかさとはまるでちがったことを考へながら、牛乳屋の方へ急ぐのでした。

ジョバンニは、いつか町はづれのポプラの木が幾本も幾本も、高く星ぞらに浮んでゐるところに来てゐました。その牛乳屋の黒い門を入り、牛の匂<にほひ>のするうすくらい台所の前に立って、ジョバンニは帽子をぬいで「今晩は、」と云ひましたら、家の中はしぃんとして誰<たれ>も居たやうではありませんでした。

「今晩は、ごめんなさい。」ジョバンニはまっすぐに立ってまた叫びました。するとしばらくたってから、年老<と>った女の人が、どこか工合<ぐあひ>が悪いやうにそろそろと出て来て何か用かと口の中で云ひました。

「あの、今日、牛乳が僕んとこへ来なかったので、貰<もら>ひにあがったんです。」ジョバンニが一生けん命勢よく云ひました。

「いま誰もゐないでわかりません。あしたにして下さい。」

その人は、赤い眼の下のとこを擦<こす>りながら、ジョバンニを見おろして云ひました。

「おっかさんが病気なんですから今晩でないと困るんです。」

「ではもう少したってから来てください。」その人はもう行ってしまひさうでした。

「さうですか。ではありがたう。」ジョバンニは、お辞儀をして台所から出ました。

十字になった町のかどを、まがらうとしましたら、向ふの橋へ行く方の雑貨店の前で、黒い影やぼんやり白いシャツが入り乱れて、六七人の生徒らが、口笛を吹いたり笑ったりして、めいめい烏瓜<からすうり>の燈火<あかり>を持ってやって来るのを見ました。その笑ひ声も口笛も、みんな聞きおぼえのあるものでした。ジョバンニの同級の子供らだったのです。ジョバンニは思はずどきっとして戻らうとしましたが、思ひ直して、一さう勢よくそっちへ歩いて行きました。

「川へ行くの。」ジョバンニが云はうとして、少しのどがつまったやうに思ったとき、
「ジョバンニ、らっこの上着が来るよ。」さっきのザネリがまた叫びました。

「ジョバンニ、らっこの上着が来るよ。」すぐみんなが、続いて叫びました。ジョバンニはまっ赤になって、もう歩いてゐるかもわからず、急いで行きすぎやうとしましたら、そのなかにカムパネルラが居たのです。カムパネルラは気の毒さうに、だまって少しわらって、怒らないだらうかといふやうにジョバンニの方を見てゐました。

ジョバンニは、遁<に>げるやうにその眼を避け、そしてカムパネルラのせいの高いかたちが過ぎて行って間もなく、みんなはてんでに口笛を吹きました。町かどを曲るとき、ふりかへって見ましたら、ザネリがやはりふりかへって見てゐました。そしてカムパネルラもまた、高く口笛を吹いて向ふにぼんやり見える橋の方へ歩いて行ってしまったのでした。ジョバンニは、なんとも云へずさびしくなって、いきなり走り出しました。すると耳に手をあてて、わああと云ひながら片足でぴょんぴょん跳んでゐた小さな子供らは、ジョバンニが面白くてかけるのだと思ってわあいと叫びました。まもなくジョバンニは黒い丘の方へ急ぎました。

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五、天気輪の柱

牧場のうしろはゆるい丘になって、その黒い平らな頂上は、北の大熊星<おほぐまぼし>の下に、ぼんやりふだんよりも低く連って見えました。

ジョバンニは、もう露の降りかかった小さな林のこみちを、どんどんのぼって行きました。まっくらな草や、いろいろな形に見えるやぶのしげみの間を、その小さなみちが、一すじ白く星あかりに照らしだされてあったのです。草の中には、ぴかぴか青びかりを出す小さな虫もゐて、ある葉は青くすかし出され、ジョバンニは、さっきみんなの持って行った烏瓜<からすうり>のあかりのやうだとも思ひました。

そのまっ黒な、松や楢<なら>の林を越えると、俄<には>かにがらんと空がひらけて、天の川がしらしらと南から北へ亙<わた>ってゐるのが見え、また頂の、天気輪の柱も見わけられたのでした。つりがねさうか野ぎくかの花が、そこらいちめんに、夢の中からでも薫りだしたといふやうに咲き、鳥が一疋<ぴき>、丘の上を鳴き続けながら通って行きました。

ジョバンニは、頂の天気輪の柱の下に来て、どかどかするからだを、つめたい草に投げました。

町の灯は、暗<やみ>の中をまるで海の底のお宮のけしきのやうにともり、子供らの歌ふ声や口笛、きれぎれの叫び声もかすかに聞えて来るのでした。風が遠くで鳴り、丘の草もしづかにそよぎ、ジョバンニの汗でぬれたシャツもつめたく冷されました。ジョバンニは町のはづれから遠く黒くひろがった野原を見わたしました。

そこから汽車の音が聞えてきました。その小さな列車の窓は一列小さく赤く見え、その中にはたくさんの旅人が、苹果<りんご>を剥<む>いたり、わらったり、いろいろな風にしてゐると考へますと、ジョバンニは、もう何とも云へずかなしくなって、また眼をそらに挙げました。

あゝあの白いそらの帯がみんな星だといふぞ。

ところがいくら見てゐても、そのそらはひる先生の云ったやうな、がらんとした冷いとこだとは思はれませんでした。それどころでなく、見れば見るほど、そこは小さな林や牧場やらある野原のやうに考へられて仕方なかったのです。そしてジョバンニは青い琴の星が、三つにも四つにもなって、ちらちら瞬き、脚が何べんも出たり引っ込んだりして、たうとう蕈<きのこ>のやうに長く延びるのを見ました。またすぐ眼の下のまちまでがやっぱりぼんやりしたたくさんの星の集りか一つの大きなけむりかのやうに見えるやうに思ひました。

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六、銀河ステーション
そしてジョバンニはすぐうしろの天気輪の柱がいつかぼんやりした三角標の形になって、しばらく蛍<ほたる>のやうに、ぺかぺか消えたりともったりしてゐるのを見ました。それはだんだんはっきりして、たうとうりんとうごかないやうになり、濃い鋼青のそらの野原にたちました。いま新らしく灼<や>いたばかりの青い鋼の板のやうな、そらの野原に、まっすぐにすきっと立ったのです。

するとどこかで、ふしぎな声が、銀河ステーション、銀河ステーションと云ふ声がしたと思ふといきなり眼の前が、ぱっと明るくなって、まるで億万の蛍烏賊<ほたるいか>の火を一ぺんに化石させて、そら中に沈めたといふ工合<ぐあひ>、またダイアモンド会社で、ねだんがやすくならないために、わざと穫<と>れないふりをして、かくして置いた金剛石を、誰<たれ>かがいきなりひっくりかへして、ばら撒<ま>いたといふ風に、眼の前がさあっと明るくなって、ジョバンニは、思はず何べんも眼を擦<こす>ってしまひました。

気がついてみると、さっきから、ごとごとごとごと、ジョバンニの乗ってゐる小さな列車が走りつづけてゐたのでした。ほんたうにジョバンニは、夜の軽便鉄道の、小さな黄いろの電燈のならんだ車室に、窓から外を見ながら座ってゐたのです。車室の中は、青い天鵞絨<びろうど>を張った腰掛けが、まるでがら明きで、向ふの鼠<ねずみ>いろのワニスを塗った壁には、真鍮<しんちゆう>の大きなぼたんが二つ光ってゐるのでした。

すぐ前の席に、ぬれたやうにまっ黒な上着を着た、せいの高い子供が、窓から頭を出して外を見てゐるのに気が付きました。そしてそのこどもの肩のあたりが、どうも見たことのあるやうな気がして、さう思ふと、もうどうしても誰だかわかりたくて、たまらなくなりました。いきなりこっちも窓から顔を出さうとしたとき、俄<には>かにその子供が頭を引っ込めて、こっちを見ました。

それはカムパネルラだったのです。

ジョバンニが、カムパネルラ、きみは前からこゝに居たのと云はうと思ったとき、カムパネルラが
「みんなはねずゐぶん走ったけれども遅れてしまったよ。ザネリもね、ずゐぶん走ったけれども追ひつかなかった。」と云ひました。

ジョバンニは、(さうだ、ぼくたちはいま、いっしょにさそって出掛けたのだ。)とおもひながら、
「どこかで待ってゐようか」と云ひました。するとカムパネルラは
「ザネリはもう帰ったよ。お父さんが迎ひにきたんだ。」

カムパネルラは、なぜかさう云ひながら、少し顔いろが青ざめて、どこか苦しいといふふうでした。するとジョバンニも、なんだかどこかに、何か忘れたものがあるといふやうな、をかしな気持ちがしてだまってしまひました。

ところがカムパネルラは、窓から外をのぞきながら、もうすっかり元気が直って、勢よく云ひました。

「あゝしまった。ぼく、水筒を忘れてきた。スケッチ帳も忘れてきた。けれど構はない。もうぢき白鳥の停車場だから。ぼく、白鳥を見るなら、ほんたうにすきだ。川の遠くを飛んでゐたって、ぼくはきっと見える。」そして、カムパネルラは、円い板のやうになった地図を、しきりにぐるぐるまはして見てゐました。まったくその中に、白くあらはされた天の川の左の岸に沿って一条の鉄道線路が、南へ南へとたどって行くのでした。そしてその地図の立派なことは、夜のやうにまっ黒な盤の上に、一一の停車場や三角標、泉水や森が、青や橙<だいだい>や緑や、うつくしい光でちりばめられてありました。ジョバンニはなんだかその地図をどこかで見たやうにおもひました。

「この地図はどこで買ったの。黒曜石でできてるねえ。」

ジョバンニが云ひました。

「銀河ステーションで、もらったんだ。君もらはなかったの。」

「あゝ、ぼく銀河ステーションを通ったらうか。いまぼくたちの居るとこ、ここだらう。」

ジョバンニは、白鳥と書いてある停車場のしるしの、すぐ北を指しました。

「さうだ。おや、あの河原は月夜だらうか。」

そっちを見ますと、青白く光る銀河の岸に、銀いろの空のすゝきが、もうまるでいちめん、風にさらさらさらさら、ゆられてうごいて、波を立ててゐるのでした。

「月夜でないよ。銀河だから光るんだよ。」ジョバンニは云ひながら、まるではね上りたいくらゐ愉快になって、足をこつこつ鳴らし、窓から顔を出して、高く高く星めぐりの口笛を吹きながら一生けん命延びあがって、その天の川の水を、見きはめようとしましたが、はじめはどうしてもそれが、はっきりしませんでした。けれどもだんだん気をつけて見ると、そのきれいな水は、ガラスよりも水素よりもすきとほって、ときどき眼の加減か、ちらちら紫いろのこまかな波をたてたり、虹のやうにぎらっと光ったりしながら、声もなくどんどん流れて行き、野原にはあっちにもこっちにも、燐光<りんくわう>の三角標が、うつくしく立ってゐたのです。遠いものは小さく、近いものは大きく、遠いものは橙や黄いろではっきりし、近いものは青白く少しかすんで、或<ある>いは三角形、或いは四辺形、あるいは電<いなづま>や鎖の形、さまざまにならんで、野原いっぱい光ってゐるのでした。ジョバンニは、まるでどきどきして、頭をやけに振りました。するとほんたうに、そのきれいな野原中の青や橙や、いろいろかゞやく三角標も、てんでに息をつくやうに、ちらちらゆれたり顫<ふる>へたりしました。

「ぼくはもう、すっかり天の野原に来た。」ジョバンニは云ひました。
「それにこの汽車石炭をたいてゐないねえ。」ジョバンニが左手をつき出して窓から前の方を見ながら云ひました。

「アルコールか電気だらう。」カムパネルラが云ひました。

ごとごとごとごと、その小さなきれいな汽車は、そらのすゝきの風にひるがへる中を、天の川の水や、三角点の青じろい微光の中を、どこまでもどこまでもと、走って行くのでした。

「あゝ、りんだうの花が咲いてゐる。もうすっかり秋だねえ。」カムパネルラが、窓の外を指さして云ひました。

線路のへりになったみじかい芝草の中に、月長石ででも刻まれたやうな、すばらしい紫のりんだうの花が咲いてゐました。

「ぼく、飛び下りて、あいつをとって、また飛び乗ってみせようか。」ジョバンニは胸を躍らせて云ひました。

「もうだめだ。あんなにうしろへ行ってしまったから。」

カムパネルラが、さう云ってしまふかしまはないうち、次のりんだうの花が、いっぱいに光って過ぎて行きました。

と思ったら、もう次から次から、たくさんのきいろな底をもったりんだうの花のコップが、湧<わ>くやうに、雨のやうに、眼の前を通り、三角標の列は、けむるやうに燃えるやうに、いよいよ光って立ったのです。

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七、北十字とプリオシン海岸

「おっかさんは、ぼくをゆるして下さるだらうか。」

いきなり、カムパネルラが、思ひ切ったといふやうに、少しどもりながら、急<せ>きこんで云ひました。

ジョバンニは、
(あゝ、さうだ、ぼくのおっかさんは、あの遠い一つのちりのやうに見える橙<だいだい>いろの三角標のあたりにゐらっしゃって、いまぼくのことを考へてゐるんだった。)と思ひながら、ぼんやりしてだまってゐました。

「ぼくはおっかさんが、ほんたうに幸になるなら、どんなことでもする。けれども、いったいどんなことが、おっかさんのいちばんの幸なんだらう。」カムパネルラは、なんだか、泣きだしたいのを、一生けん命こらえてゐるやうでした。

「きみのおっかさんは、なんにもひどいことないぢゃないの。」ジョバンニはびっくりして叫びました。

「ぼくわからない。けれども、誰<たれ>だって、ほんたうにいいことをしたら、いちばん幸なんだねえ。だから、おっかさんは、ぼくをゆるして下さると思ふ。」カムパネルラは、なにかほんたうに決心してゐるやうに見えました。

俄<には>かに、車のなかが、ぱっと白く明るくなりました。見ると、もうじつに、金剛石や草の露やあらゆる立派さをあつめたやうな、きらびやかな銀河の河床の上を水は声もなくかたちもなく流れ、その流れのまん中に、ぼうっと青白く後光の射<さ>した一つの島が見えるのでした。その島の平らないただきに、立派な眼もさめるやうな、白い十字架がたって、それはもう凍った北極の雲で鋳たといったらいゝか、すきっとした金いろの円光をいただいて、しづかに永久に立ってゐるのでした。

「ハルレヤ、ハルレヤ。」前からもうしろからも声が起りました。ふりかへって見ると、車室の中の旅人たちは、みなまっすぐにきもののひだを垂れ、黒いバイブルを胸にあてたり、水晶の珠数<じゆず>をかけたり、どの人もつつましく指を組み合せて、そっちに祈ってゐるのでした。思はず二人もまっすぐに立ちあがりました。カムパネルラの頬<ほほ>は、まるで熟した苹果<りんご>のあかしのやうにうつくしくかゞやいて見えました。

そして島と十字架とは、だんだんうしろの方へうつって行きました。

向ふ岸も、青じろくぽうっと光ってけむり、時々、やっぱりすすきが風にひるがへるらしく、さっとその銀いろがけむって、息でもかけたやうに見え、また、たくさんのりんだうの花が、草をかくれたり出たりするのは、やさしい狐火<きつねび>のやうに思はれました。

それもほんのちょっとの間、川と汽車との間は、すすきの列でさへぎられ、白鳥の島は、二度ばかり、うしろの方に見えましたが、ぢきもうずうっと遠く小さく、絵のやうになってしまひ、またすゝきがざわざわ鳴って、たうとうすっかり見えなくなってしまひました。ジョバンニのうしろには、いつから乗ってゐたのか、せいの高い、黒いかつぎをしたカトリック風の尼さんが、まん円な緑の瞳<ひとみ>を、じっとまっすぐに落して、まだ何かことばか声かが、そっちから伝はって来るのを、虔<つつし>んで聞いてゐるといふやうに見えました。旅人たちはしづかに席に戻り、二人も胸いっぱいのかなしみに似た新らしい気持ちを、何気なくちがった語<ことば>で、そっと談<はな>し合ったのです。

「もうぢき白鳥の停車場だねえ。」

「あゝ、十一時かっきりには着くんだよ。」

早くも、シグナルの緑の燈と、ぼんやり白い柱とが、ちらっと窓のそとを過ぎ、それから硫黄<いわう>のほのほのやうなくらいぼんやりした転てつ機の前のあかりが窓の下を通り、汽車はだんだんゆるやかになって、間もなくプラットホームの一列の電燈が、うつくしく規則正しくあらはれ、それがだんだん大きくなってひろがって、二人は丁度白鳥停車場の、大きな時計の前に来てとまりました。

さはやかな秋の時計の盤面<ダイアル>には、青く灼<や>かれたはがねの二本の針が、くっきり十一時を指しました。みんなは、一ぺんに下りて、車室の中はがらんとなってしまひました。

〔二十分停車〕と時計の下に書いてありました。

「ぼくたちも降りて見ようか。」ジョバンニが云ひました。

「降りよう。」

二人は一度にはねあがってドアを飛び出して改札口へかけて行きました。ところが改札口には、明るい紫がかった電燈が、一つ点<つ>いてゐるばかり、誰<たれ>も居ませんでした。そこら中を見ても、駅長や赤帽らしい人の、影もなかったのです。

二人は、停車場の前の、水晶細工のやうに見える銀杏<いてふ>の木に囲まれた、小さな広場に出ました。そこから幅の広いみちが、まっすぐに銀河の青光の中へ通ってゐました。

さきに降りた人たちは、もうどこへ行ったか一人も見えませんでした。二人がその白い道を、肩をならべて行きますと、二人の影は、ちゃうど四方に窓のある室<へや>の中の、二本の柱の影のやうに、また二つの車輪の輻<や>のやうに幾本も幾本も四方へ出るのでした。そして間もなく、あの汽車から見えたきれいな河原に来ました。

カムパネルラは、そのきれいな砂を一つまみ、掌<てのひら>にひろげ、指できしきしさせながら、夢のやうに云ってゐるのでした。

「この砂はみんな水晶だ。中で小さな火が燃えてゐる。」

「さうだ。」どこでぼくは、そんなこと習ったらうと思ひながら、ジョバンニもぼんやり答へてゐました。

河原の礫<こいし>は、みんなすきとほって、たしかに水晶や黄玉や、またくしゃくしゃの皺曲<しうきよく>をあらはしたのや、また稜<かど>から霧のやうな青白い光を出す鋼玉やらでした。ジョバンニは、走ってその渚<なぎさ>に行って、水に手をひたしました。けれどもあやしいその銀河の水は、水素よりももっとすきとほってゐたのです。それでもたしかに流れてゐたことは、二人の手首の、水にひたったとこが、少し水銀いろに浮いたやうに見え、その手首にぶっつかってできた波は、うつくしい燐光<りんくわう>をあげて、ちらちらと燃えるやうに見えたのでもわかりました。

川上の方を見ると、すすきのいっぱいに生えてゐる崖<がけ>の下に、白い岩が、まるで運動場のやうに平らに川に沿って出てゐるのでした。そこに小さな五六人の人かげが、何か堀り出すか埋めるかしてゐるらしく、立ったり屈<かが>んだり、時々なにかの道具が、ピカッと光ったりしました。

「行ってみよう。」二人は、まるで一度に叫んで、そっちの方へ走りました。その白い岩になった処<ところ>の入口に、
〔プリオシン海岸〕といふ、瀬戸物のつるつるした標札が立って、向ふの渚には、ところどころ、細い鉄の欄干も植ゑられ、木製のきれいなベンチも置いてありました。

「おや、変なものがあるよ。」カムパネルラが、不思議さうに立ちどまって、岩から黒い細長いさきの尖<とが>ったくるみの実のやうなものをひろひました。

「くるみの実だよ。そら、沢山ある。流れて来たんぢゃない。岩の中に入ってるんだ。」

「大きいね、このくるみ、倍あるね。こいつはすこしもいたんでない。」

「早くあすこへ行って見よう。きっと何か堀ってるから。」

二人は、ぎざぎざの黒いくるみの実を持ちながら、またさっきの方へ近よって行きました。左手の渚<なぎさ>には、波がやさしい稲妻のやうに燃えて寄せ、右手の崖<がけ>には、いちめん銀や貝殻でこさへたやうなすすきの穂がゆれたのです。

だんだん近付いて見ると、一人のせいの高い、ひどい近眼鏡をかけ、長靴<ながぐつ>をはいた学者らしい人が、手帳に何かせはしさうに書きつけながら、鶴嘴<つるはし>をふりあげたり、スコープをつかったりしてゐる、三人の助手らしい人たちに夢中でいろいろ指図をしてゐました。

「そこのその突起を壊さないやうに。スコープを使ひたまへ、スコープを。おっと、も少し遠くから堀って。いけない、いけない。なぜそんな乱暴をするんだ。」

見ると、その白い柔らかな岩の中から、大きな大きな青じろい獣の骨が、横に倒れて潰<つぶ>れたといふ風になって、半分以上堀り出されてゐました。そして気をつけて見ると、そこらには、蹄<ひづめ>の二つある足跡のついた岩が、四角に十ばかり、きれいに切り取られて番号がつけられてありました。

「君たちは参観かね。」その大学士らしい人が、眼鏡<めがね>をきらっとさせて、こっちを見て話しかけました。「くるみが沢山あったらう。それはまあ、ざっと百二十万年ぐゐい前のくるみだよ。ごく新らしい方さ。ここは百二十万年前、第三紀のあとのころは海岸でね、この下からは貝がらも出る。いま川の流れてゐるとこに、そっくり塩水が寄せたり引いたりもしてゐたのだ。このけものかね、これはボスといってね、おいおい、そこつるはしはよしたまへ。ていねいに鑿<のみ>でやってくれたまへ。ボスといってね、いまの牛の先祖で、昔はたくさん居たさ。」

「標本にするんですか。」

「いや、証明するに要るんだ。ぼくらからみると、ここは厚い立派な地層で、百二十万年ぐらゐ前にできたといふ証拠もいろいろあがるけれども、ぼくらとちがったやつからみてもやっぱりこんな地層に見えるかどうか、あるいは風か水やがらんとした空かに見えやしないかといふことなのだ。わかったかい。けれども、おいおい。そこもスコープではいけない。そのすぐ下に肋骨<ろくこつ>が埋もれてる筈<はず>ぢゃないか。」大学士はあわてて走って行きました。

「もう時間だよ。行かう。」カムパネルラが地図と腕時計とをくらべながら云ひました。

「ああ、ではわたくしどもは失礼いたします。」ジョバンニは、ていねいに大学士におじぎしました。

「さうですか。いや、さよなら。」大学士は、また忙がしさうに、あちこち歩きまはって監督をはじめました。二人は、その白い岩の上を、一生けん命汽車におくれないやうに走りました。そしてほんたうに、風のやうに走れたのです。息も切れず膝<ひざ>もあつくなりませんでした。

こんなにしてかけるなら、もう世界中だってかけれると、ジョバンニは思ひました。

そして二人は、前のあの河原を通り、改札口の電燈がだんだん大きくなって、間もなく二人は、もとの車室の席に座って、いま行って来た方を、窓から見てゐました。

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八、鳥を捕る人

「ここへかけてもようございますか。」

がさがさした、けれども親切さうな、大人の声が、二人のうしろで聞えました。

それは、茶いろの少しぼろぼろの外套<ぐわいたう>を着て、白い巾<きれ>でつつんだ荷物を、二つに分けて肩に掛けた、赤髯<あかひげ>のせなかのかがんだ人でした。

「えゝ、いゝんです。」ジョバンニは、少し肩をすぼめて挨拶<あいさつ>しました。その人は、ひげの中でかすかに微笑<わら>ひながら、荷物をゆっくり網棚<あみだな>にのせました。ジョバンニは、なにか大へんさびしいやうなかなしいやうな気がして、だまって正面の時計を見てゐましたら、ずうっと前の方で、硝子<ガラス>の笛のやうなものが鳴りました。汽車はもう、しづかにうごいてゐたのです。カムパネルラは、車室の天井を、あちこち見てゐました。その一つのあかりに黒い甲虫がとまってその影が大きく天井にうつってゐたのです。赤ひげの人は、なにかなつかしさうにわらひながら、ジョバンニやカムパネルラのやうすを見てゐました。汽車はもうだんだん早くなって、すすきと川と、かはるがはる窓の外から光りました。

赤ひげの人が、少しおづおづしながら、二人に訊<き>きました。

「あなた方は、どちらへいらっしゃるんですか。」

「どこまでも行くんです。」ジョバンニは、少しきまり悪さうに答へました。

「それはいいね。この汽車は、じっさい、どこまででも行きますぜ。」

「あなたはどこへ行くんです。」カムパネルラが、いきなり、喧嘩<けんくわ>のやうにたづねましたので、ジョバンニは、思はずわらひました。すると、向ふの席に居た、尖<とが>った帽子をかぶり、大きな鍵<かぎ>を腰に下げた人も、ちらっとこっちを見てわらひましたので、カムパネルラも、つい顔を赤くして笑ひだしてしまひました。ところがその人は別に怒ったでもなく、頬<ほほ>をぴくぴくしながら返事しました。

「わっしはすぐそこで降ります。わっしは、鳥をつかまへる商売でね。」

「何鳥ですか。」

「鶴<つる>や雁<がん>です。さぎも白鳥もです。」

「鶴はたくさんゐますか。」

「居ますとも、さっきから鳴いてまさあ。聞かなかったのですか。」

「いゝえ。」

「いまでも聞えるぢゃありませんか。そら、耳をすまして聴いてごらんなさい。」

二人は眼を挙げ、耳をすましました。ごとごと鳴る汽車のひびきと、すすきの風との間から、ころんころんと水の湧<わ>くやうな音が聞えて来るのでした。

「鶴、どうしてとるんですか。」

「鶴ですか、それとも鷺<さぎ>ですか。」

「鷺です。」ジョバンニは、どっちでもいいと思ひながら答へました。

「そいつはな、雑作<ざふさ>ない。さぎといふものは、みんな天の川の砂が凝<こご>って、ぼおっとできるもんですからね、そして始終川へ帰りますからね、川原で待ってゐて、鷺がみんな、脚をかういふ風にして下りてくるとこを、そいつが地べたへつくかつかないうちに、ぴたっと押へちまふんです。するともう鷺は、かたまって安心して死んぢまひます。あとはもう、わかり切ってまさあ。押し葉にするだけです。」

「鷺を押し葉にするんですか。標本ですか。」

「標本ぢゃありません。みんなたべるぢゃありませんか。」

「おかしいねえ。」カムパネルラが首をかしげました。

「おかしいも不審もありませんや。そら。」その男は立って、網棚<あみだな>から包みをおろして、手ばやくくるくると解きました。「さあ、ごらんなさい。いまとって来たばかりです。」

「ほんたうに鷺だねえ。」二人は思はず叫びました。まっ白な、あのさっきの北の十字架のやうに光る鷺のからだが、十ばかり、少しひらべったくなって、黒い脚をちぢめて、浮彫のやうにならんでゐたのです。

「眼をつぶってるね。」カムパネルラは、指でそっと、鷺の三日月がたの白い瞑<つぶ>った眼にさわりました。頭の上の槍<やり>のやうな白い毛もちゃんとついてゐました。

「ね、さうでせう。」鳥捕りは風呂敷を重ねて、またくるくると包んで紐<ひも>でくくりました。誰<たれ>がいったいここらで鷺なんぞ喰べるだらうとジョバンニは思ひながら訊<き>きました。

「鷺はおいしいんですか。」

「えゝ、毎日注文があります。しかし雁の方が、もっと売れます。雁の方がずっと柄がいいし、第一手数がありませんからな。そら。」鳥捕りは、また別の方の包みを解きました。すると黄と青じろとまだらになって、なにかのあかりのやうにひかる雁が、ちゃうどさっきの鷺のやうに、くちばしを揃<そろ>へて、少し扁<ひら>べったくなって、ならんでゐました。

「こっちはすぐ喰べられます。どうです、少しおあがりなさい。」鳥捕りは、黄いろな雁の足を、軽くひっぱりました。するとそれは、チョコレートででもできてゐるやうに、すっときれいにはなれました。

「どうです。すこしたべてごらんなさい。」鳥捕りは、それを二つにちぎってわたしました。ジョバンニは、ちょっと喰べてみて、(なんだ、やっぱりこいつはお菓子だ。チョコレートよりも、もっとおいしいけれども、こんな雁が飛んでゐるもんか。この男は、どこかそこらの野原の菓子屋だ。けれどもぼくは、このひとをばかにしながら、この人のお菓子をたべてゐるのは、大へん気の毒だ。)とおもひながら、やっぱりぽくぽくそれをたべてゐました。

「も少しおあがりなさい。」鳥捕りがまた包みを出しました。ジョバンニは、もっとたべたかったのですけれども、
「えゝ、ありがたう。」と云って遠慮しましたら、鳥捕りは、こんどは向ふの席の、鍵をもった人に出しました。

「いや、商売ものを貰<もら>っちゃすみませんな。」その人は、帽子をとりました。

「いゝえ、どういたしまして。どうです、今年の渡り鳥の景気は。」

「いや、すてきなもんですよ。一昨日<をととひ>の第二限ころなんか、なぜ燈台の灯を、規則以外に間〔一字分空白〕させるかって、あっちからもこっちからも、電話で故障が来ましたが、なあに、こっちがやるんぢゃなくて、渡り鳥どもが、まっ黒にかたまって、あかしの前を通るのですから仕方ありませんや。わたしぁ、べらぼうめ、そんな苦情は、おれのとこへ持って来たって仕方がねえや、ばさばさのマントを着て脚と口との途方もなく細い大将へやれって、斯<か>う云ってやりましたがね、はっは。」

すすきがなくなったために、向ふの野原から、ぱっとあかりが射<さ>して来ました。

「鷺<さぎ>の方はなぜ手数なんですか。」カムパネルラは、さっきから、訊かうと思ってゐたのです。

「それはね、鷺を喰べるには、」鳥捕りは、こっちに向き直りました。

「天の川の水あかりに、十日もつるして置くかね、さうでなけぁ、砂に三四日うづめなけぁいけないんだ。さうすると、水銀がみんな蒸発して、喰べられるやうになるよ。」

「こいつは鳥ぢゃない。たゞのお菓子でせう。」やっぱりおなじことを考へてゐたとみえて、カムパネルラが、思い切ったといふやうに、尋ねました。鳥捕りは、何か大へんあわてた風で、
「さうさう、ここで降りなけぁ。」と云ひながら、立って荷物をとったと思ふと、もう見えなくなってゐました。

「どこへ行ったんだらう。」

二人は顔を見合せましたら、燈台守は、にやにや笑って、少し伸びあがるやうにしながら、二人の横の窓の外をのぞきました。二人もそっちを見ましたら、たったいまの鳥捕りが、黄いろと青じろの、うつくしい燐光<りんくわう>を出す、いちめんのかはらははこぐさの上に立って、まじめな顔をして両手をひろげて、じっとそらを見てゐたのです。

「あすこへ行ってる。ずゐぶん奇体だねえ。きっとまた鳥をつかまへるとこだねえ。汽車が走って行かないうちに、早く鳥がおりるといゝな。」と云った途端、がらんとした桔梗<ききやう>いろの空から、さっき見たやうな鷺が、まるで雪の降るやうに、ぎゃあぎゃあ叫びながら、いっぱいに舞ひおりて来ました。するとあの鳥捕りは、すっかり注文通りだといふやうにほくほくして、両足をかっきり六十度に開いて立って、鷺のちぢめて降りて来る黒い脚を両手で片っ端から押へて、布の袋の中に入れるのでした。すると鷺は、蛍<ほたる>のやうに、袋の中でしばらく、青くぺかぺか光ったり消えたりしてゐましたが、おしまひたうとう、みんなぼんやり白くなって、眼をつぶるのでした。ところが、つかまへられる鳥よりは、つかまへられないで無事に天の川の砂の上に降りるものの方が多かったのです。それは見てゐると、足が砂へつくや否や、まるで雪の融<と>けるやうに、縮まって扁<ひら>べったくなって、間もなく熔鉱炉から出た銅の汁のやうに、砂や砂利の上にひろがり、しばらくは鳥の形が、砂についてゐるのでしたが、それも二三度明るくなったり暗くなったりしてゐるうちに、もうすっかりまはりと同じいろになってしまふのでした。

鳥捕りは二十疋ばかり、袋に入れてしまふと、急に両手をあげて、兵隊が鉄砲弾にあたって、死ぬときのやうな形をしました。と思ったら、もうそこに鳥捕りの形はなくなって、却って、
「あゝせいせいした。どうもからだに恰度<ちやうど>合ふほど稼<かせ>いでゐるくらゐ、いゝことはありませんな。」といふききおぼえのある声が、ジョバンニの隣りにしました。見ると鳥捕りは、もうそこでとって来た鷺を、きちんとそろへて、一つづつ重ね直してゐるのでした。

「どうしてあすこから、いっぺんにこゝへ来たんですか。」ジョバンニが、なんだかあたりまへのやうな、あたりまへでないやうな、をかしな気がして問ひました。

「どうしてって、来ようとしたから来たんです。ぜんたいあなた方は、どちらからおいでですか。」

ジョバンニは、すぐ返事しようと思ひましたけれども、さあ、ぜんたいどこから来たのか、もうどうしても考へつきませんでした。カムパネルラも、顔をまっ赤にして何か思ひ出さうとしてゐるのでした。

「あゝ、遠くからですね。」鳥捕りは、わかったといふやうに雑作<ざふさ>なくうなづきました。

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九、ジョバンニの切符

「もうこゝらは白鳥区のおしまひです。ごらんなさい。あれが名高いアルビレオの観測所です。」

窓の外の、まるで花火でいっぱいのやうな、あまの川のまん中に、黒い大きな建物が四棟<むね>ばかり立って、その一つの平屋根の上に、眼もさめるやうな、青宝玉<サフアイア>と黄玉<トパース>の大きな二つのすきとほった球が、輪になってしづかにくるくるとまはってゐました。黄いろのがだんだん向ふへまはって行って、青い小さいのがこっちへ進んで来、間もなく二つのはじは、重なり合って、きれいな緑いろの両面凸レンズのかたちをつくり、それもだんだん、まん中がふくらみ出して、たうとう青いのは、すっかりトパースの正面に来ましたので、緑の中心と黄いろな明るい環<わ>とができました。それがまただんだん横へ外<そ>れて、前のレンズの形を逆に繰り返し、たうとうすっとはなれて、サファイアは向ふへめぐり、黄いろのはこっちへ進み、また丁度さっきのやうな風になりました。銀河の、かたちもなく音もない水にかこまれて、ほんたうにその黒い測候所が、睡ってゐるやうに、しづかによこたはったのです。

「あれは、水の速さをはかる器械です。水も……。」鳥捕りが云ひかけたとき、

「切符を拝見いたします。」三人の席の横に、赤い帽子をかぶったせいの高い車掌が、いつかまっすぐに立ってゐて云ひました。鳥捕りは、だまってかくしから、小さな紙きれを出しました。車掌はちょっと見て、すぐ眼をそらして、(あなた方のは?)といふやうに、指をうごかしながら、手をジョバンニたちの方へ出しました。

「さあ、」ジョバンニは困って、もぢもぢしてゐましたら、カムパネルラは、わけもないといふ風で、小さな鼠いろの切符を出しました。ジョバンニは、すっかりあわててしまって、もしか上着のポケットにでも、入ってゐたかとおもひながら、手を入れて見ましたら、何か大きな畳んだ紙きれにあたりました。こんなもの入ってゐたらうかと思って、急いで出してみましたら、それは四つに折ったはがきぐらゐの大さの緑いろの紙でした。車掌が手を出してゐるもんですから何でも構はない、やっちまへと思って渡しましたら、車掌はまっすぐに立ち直って叮寧にそれを開いて見てゐました。そして読みながら上着のぼたんやなんかしきりに直したりしていましたし燈台看守も下からそれを熱心にのぞいてゐましたから、ジョバンニはたしかにあれは証明書か何かだったと考へて少し胸が熱くなるやうな気がしました。

「これは三次空間の方からお持ちになったのですか。」車掌がたづねました。

「何だかわかりません。」もう大丈夫だと安心しながらジョバンニはそっちを見あげてくつくつ笑ひました。

「よろしうございます。南十字<サウザンクロス>へ着きますのは、次の第三時ころになります。」車掌は紙をジョバンニに渡して向ふへ行きました。

カムパネルラは、その紙切れが何だったか待ち兼ねたといふやうに急いでのぞきこみました。ジョバンニも全く早く見たかったのです。ところがそれはいちめん黒い唐草のやうな模様の中に、をかしな十ばかりの字を印刷したものでだまって見てゐると何だかその中へ吸ひ込まれてしまふやうな気がするのでした。すると鳥捕りが横からちらっとそれを見てあわてたやうに云ひました。

「おや、こいつは大したもんですぜ。こいつはもう、ほんたうの天上へさへ行ける切符だ。天上どこぢゃない、どこでも勝手にあるける通行券です。こいつをお持ちになれぁ、なるほど、こんな不完全な幻想第四次の銀河鉄道なんか、どこまででも行ける筈<はず>でさあ、あなた方大したもんですね。」

「何だかわかりません。」ジョバンニが赤くなって答へながらそれを又畳んでかくしに入れました。そしてきまりが悪いのでカムパネルラと二人、また窓の外をながめてゐましたが、その鳥捕りの時々大したもんだといふやうにちらちらこっちを見てゐるのがぼんやりわかりました。

「もうぢき鷲<わし>の停車場だよ。」カムパネルラが向ふ岸の、三つならんだ小さな青じろい三角標と地図とを見較<みくら>べて云ひました。

ジョバンニはなんだかわけもわからずににはかにとなりの鳥捕りが気の毒でたまらなくなりました。鷺をつかまへてせいせいしたとよろこんだり、白いきれでそれをくるくる包んだり、ひとの切符をびっくりしたやうに横目で見てあわててほめだしたり、そんなことを一一考へてゐると、もうその見ず知らずの鳥捕りのために、ジョバンニの持ってゐるものでも食べるものでもなんでもやってしまひたい、もうこの人のほんたうの幸になるなら自分があの光る天の川の河原に立って百年つゞけて立って鳥をとってやってもいゝといふやうな気がして、どうしてももう黙ってゐられなくなりました。ほんたうにあなたのほしいものは一体何ですか、と訊<き>かうとして、それではあんまり出し抜けだから、どうしようかと考へて振り返って見ましたら、そこにはもうあの鳥捕りが居ませんでした。網棚<あみだな>の上には白い荷物も見えなかったのです。また窓の外で足をふんばってそらを見上げて鷺を捕る支度をしてゐるのかと思って、急いでそっちを見ましたが、外はいちめんのうつくしい砂子と白いすゝきの波ばかり、あの鳥捕りの広いせなかも尖<とが>った帽子も見えませんでした。

「あの人どこへ行ったらう。」カムパネルラもぼんやりさう云ってゐました。

「どこへ行ったらう。一体どこでまたあふのだらう。僕はどうしても少しあの人に物を言はなかったらう。」

「あゝ、僕もさう思ってゐるよ。」

「僕はあの人が邪魔なやうな気がしたんだ。だから僕は大へんつらい。」ジョバンニはこんな変てこな気もちは、ほんたうにはじめてだし、こんなこと今まで云ったこともないと思ひました。

「何だか苹果<りんご>の匂<にほひ>がする。僕いま苹果のこと考へたためだらうか。」カムパネルラが不思議さうにあたりを見まはしました。

「ほんたうに苹果の匂だよ。それから野茨<のいばら>の匂もする。」ジョバンニもそこらを見ましたがやっぱりそれは窓からでも入って来るらしいのでした。いま秋だから野茨の花の匂のする筈<はず>はないとジョバンニは思ひました。

そしたら俄<には>かにそこに、つやつやした黒い髪の六つばかりの男の子が赤いジャケツのぼたんもかけずひどくびっくりしたやうな顔をしてがたがたふるへてはだしで立ってゐました。隣りには黒い洋服をきちんと着たせいの高い青年が一ぱいに風に吹かれてゐるけやきの木のやうな姿勢で、男の子の手をしっかりひいて立ってゐました。

「あら、こゝどこでせう。まあ、きれいだわ。」青年のうしろにもひとり十二ばかりの眼の茶いろな可愛らしい女の子が黒い外套<ぐわいたう>を着て青年の腕にすがって不思議さうに窓の外を見てゐるのでした。

「ああ、こゝはランカシャイヤだ。いや、コンネクテカット州だ。いや、ああ、ぼくたちはそらへ来たのだ。わたしたちは天へ行くのです。ごらんなさい。あのしるしは天上のしるしです。もうなんにもこはいことありません。わたくしたちは神さまに召されてゐるのです。」黒服の青年はよろこびにかゞやいてその女の子に云ひました。けれどもなぜかまた額に深く皺<しわ>を刻んで、それに大へんつかれてゐるらしく、無理に笑ひながら男の子をジョバンニのとなりに座らせました。

それから女の子にやさしくカムパネルラのとなりの席を指さしました。女の子はすなほにそこへ座って、きちんと両手を組み合せました。

「ぼくおほねえさんのとこへ行くんだよう。」腰掛けたばかりの男の子は顔を変にして燈台看守の向ふの席に座ったばかりの青年に云ひました。青年は何とも云へず悲しさうな顔をして、じっとその子の、ちぢれてぬれた頭を見ました。女の子は、いきなり両手を顔にあてゝしくしく泣いてしまひました。

「お父さんやきくよねえさんはまだいろいろお仕事があるのです。けれどももうすぐあとからいらっしゃいます。それよりも、おっかさんはどんなに永く待っていらっしゃったでせう。わたしの大事なタダシはいまどんな歌をうたってゐるだらう、雪の降る朝にみんなと手をつないでぐるぐるにはとこのやぶをまはってあそんでゐるだらうかと考へたりほんたうに待って心配していらっしゃるんですから、早く行っておっかさんにお目にかゝりませうね。」

「うん、だけど僕、船に乗らなけぁよかったなあ。」

「えゝ、けれど、ごらんなさい、そら、どうです、あの立派な川、ね、あすこはあの夏中、ツヰンクル、ツヰンクル、リトル、スターをうたってやすむとき、いつも窓からぼんやり白く見えてゐたでせう。あすこですよ。ね、きれいでせう、あんなに光ってゐます。」

泣いてゐた姉もハンケチで眼をふいて外を見ました。青年は教へるやうにそっと姉弟にまた云ひました。

「わたしあちはもうなんにもかなしいことないのです。わたしたちはこんないゝとこを旅して、ぢき神さまのとこへ行きます。そこならもうほんたうに明るくて匂<にほひ>がよくて立派な人たちでいっぱいです。そしてわたしたちの代りにボートへ乗れた人たちは、きっとみんな助けられて、心配して待ってゐるめいめいのお父さんやお母さんや自分のお家へやら行くのです。さあ、もうぢきですから元気を出しておもしろくうたって行きませう。」青年は男の子のぬれたやうな黒い髪をなで、みんなを慰めながら、自分もだんだん顔いろがかゞやいて来ました。

「あなた方はどちらからいらっしゃったのですか。どうなすったのですか。」さっきの燈台看守がやっと少しわかったやうに青年にたづねました。青年はかすかにわらひました。

「いえ、氷山にぶっつかって船が沈みましてね、わたしたちはこちらのお父さんが急な用で二ヶ月前一足さきに本国へお帰りになったのであとから発<た>ったのです。私は大学へはひってゐて、家庭教師にやとはれてゐたのです。ところがちゃうど十二日目、今日か昨日のあたりです、船が氷山にぶっつかって一ぺんに傾きもう沈みかけました。月のあかりはどこかぼんやりありましたが、霧が非常に深かったのです。ところがボートは左舷の方半分はもうだめになってゐましたから、とてもみんなは乗り切らないのです。もうそのうちにも船は沈みますし、私は必死となって、どうか小さな人たちを乗せて下さいと叫びました。近くの人たちはすぐみちを開いてそして子供たちのために祈って呉<く>れました。けれどもそこからボートまでのところにはまだまだ小さな子どもたちや親たちやなんか居て、とても押しのける勇気がなかったのです。それでもわたくしはどうしてもこの方たちをお助けするのが私の義務だと思ひましたから前にゐる子供らを押しのけやうとしました。けれどもまたそんなにして助けてあげるよりはこのまゝ神のお前にみんなで行く方がほんたうにこの方たちの幸福だとも思ひました。それからまたその神にそむく罪はわたくしひとりでしょってぜひとも助けてあげようと思ひました。けれどもどうして見てゐるとそれができないのでした。子どもらばかりボートの中へはなしてやってお母さんが狂気のやうにキスを送りお父さんがかなしいのをじっとこらえてまっすぐに立ってゐるなどとてももう腸<はらわた>もちぎれるやうでした。そのうち船はもうずんずん沈みますから、私はもうすっかり覚悟してこの人たち二人を抱いて、浮べるだけは浮ぱうとかたまって船の沈むのを待ってゐました。誰<たれ>が投げたかライフブイが一つ飛んで来ましたけれども滑ってずうっと向ふへ行ってしまひました。私は一生けん命で甲板の格子になったとこをはなして、三人それにしっかりとりつきました。どこからともなく〔約二字分空白〕番の声があがりました。たちまちみんなはいろいろな国語で一ぺんにそれをうたひました。そのとき俄<には>かに大きな音がして私たちは水に落ちもう渦に入ったと思ひながらしっかりこの人たちをだいてそれからぼうっとしたと思ったらもうこゝへ来てゐたのです。この方たちのお母さんは一昨年没<な>くなられました。えゝボートはきっと助かったにちがひありません、何せよほど熟練な水夫たちが漕<こ>いですばやく船からはなれてゐましたから。」

そこらから小さないのりの声が聞えジョバンニもカムパネルラもいままで忘れてゐたいろいろのことをぼんやり思ひ出して眼が熱くなりました。

(あゝ、その大きな海はパシフィックといふのではなかったらうか。その氷山の流れる北のはての海で、小さな船に乗って、風や凍りつく潮水や、烈<はげ>しい寒さとたたかって、たれかが一生けんめいはたらいてゐる。ぼくはそのひとにほんたうに気の毒でそしてすまないやうな気がする。ぼくはそのひとのさいはひのためにいったいどうしたらいゝのだらう。)ジョバンニは首を垂れて、すっかりふさぎ込んでしまひました。

「なにがしあはせかわからないです。ほんたうにどんなつらいことでもそれがたゞしいみちを進む中でのできごとなら峠の上りも下りもみんなほんたうの幸福に近づく一あしづつですから。」

燈台守がなぐさめてゐました。

「あゝさうです。たゞいちばんのさいはひに至るためにいろいろのかなしみもみんなおぼしめしです。」

青年が祈るやうにさう答へました。

そしてあの姉弟はもうつかれてめいめいぐったり席によりかかって睡ってゐました。さっきのあのはだしだった足にはいつか白い柔らかな靴<くつ>をはいてゐたのです。

ごとごとごとごと汽車はきらびやかな燐光<りんくわう>の川の岸を進みました。向ふの方の窓を見ると、野原はまるで幻燈のやうでした。百も千もの大小さまざまの三角標、その大きなものの上には赤い点点をうった測量旗も見え、野原のはてはそれらがいちめん、たくさんたくさん集ってぼおっと青白い霧のやう、そこからかまたはもっと向ふからかときどきさまざまの形のぼんやりした狼煙<のろし>のやうなものが、かはるがはるきれいな桔梗<ききやう>いろのそらにうちあげられるのでした。じつにそのすきとほった奇麗な風は、ばらの匂<にほひ>でいっぱいでした。

「いかゞですか。かういふ苹果はおはじめてでせう。」向ふの席の燈台看守がいつか黄金<きん>と紅でうつくしくいろどられた大きな苹果を落さないやうに両手で膝<ひざ>の上にかゝえてゐました。

「おや、どっから来たのですか。立派ですねえ。こゝらではこんな苹果ができるのですか。」青年はほんたうにびっくりしたらしく燈台看守の両手にかゝへられた一もりの苹果を眼を細くしたり首をまげたりしながらわれを忘れてながめてゐました。

「いや、まあおとり下さい。どうか、まあおとり下さい。」

青年は一つとってジョバンニたちの方をちょっと見ました。

「さあ、向ふの坊ちゃんがた。いかゞですか。おとり下さい。」

ジョバンニは坊ちゃんといはれたのですこししゃくにさわってだまってゐましたがカムパネルラは
「ありがたう、」と云ひました。すると青年は自分でとって一つづつ二人に送ってよこしましたのでジョバンニも立ってありがたうと云ひました。

燈台看守はやっと両腕があいたのでこんどは自分で一つづつ睡ってゐる姉弟の膝にそっと置きました。

「どうもありがたう。どこでできるのですか。こんな立派な苹果は。」

青年はつくづく見ながら云ひました。

「この辺ではもちろん農業はいたしますけれども大ていひとりでにいゝものができるやうな約束になって居ります。農業だってそんなに骨は折れはしません。たいてい自分の望む種子<たね>さへ播<ま>けばひとりでにどんどんできます。米だってパシフィック辺のやうに殻もないし十倍も大きくて匂もいゝのです。けれどもあなたがたのいらっしゃる方なら農業はもうありません。苹果だってお菓子だってかすが少しもありませんからみんなそのひとそのひとによってちがったわづかのいゝかほりになって毛あなからちらけてしまふのです。」

にはかに男の子がぱっちり眼をあいて云ひました。

「あゝぼくいまお母さんの夢をみてゐたよ。お母さんがね立派な戸棚や本のあるとこに居てね、ぼくの方を見て手をだしてにこにこにこにこわらったよ。ぼくおっかさん。りんごをひろってきてあげませうか云ったら眼がさめちゃった。あゝこゝさっきの汽車のなかだねえ。」

「その苹果<りんご>がそこにあります。このをぢさんにいたゞいたのですよ。」青年が云ひました。

「ありがたうをぢさん。おや、かほるねえさんまだねてるねえ、ぼくおこしてやらう。ねえさん。ごらん、りんごをもらったよ。おきてごらん。」

姉はわらって眼をさましまぶしさうに両手を眼にあてゝそれから苹果を見ました。男の子はまるでパイを喰べるやうにもうそれを喰べてゐました、また折角剥<む>いたそのきれいな皮も、くるくるコルク抜きのやうな形になって床へ落ちるまでの間にはすうっと、灰いろに光って蒸発してしまふのでした。

二人はりんごを大切にポケットにしまひました。

川下の向ふ岸に青く茂った大きな林が見え、その枝には熟してまっ赤に光る円い実がいっぱい、その林のまん中に高い高い三角標が立って、森の中からはオーケストラベルやジロフォンにまぢって何とも云へずきれいな音いろが、とけるやうに浸みるやうに風につれて流れて来るのでした。

青年はぞくっとしてからだをふるふやうにしました。

だまってその譜を聞いてゐると、そこらにいちめん黄いろやうすい緑の明るい野原か敷物かがひろがり、またまっ白な蝋<らふ>のやうな露が太陽の面を擦<かす>めて行くやうに思はれました。

「まあ、あの烏<からす>。」カムパネルラのとなりのかほると呼ばれた女の子が叫びました。

「からすでない。みんなかささぎだ。」カムパネルラがまた何気なく叱<しか>るやうに叫びましたので、ジョバンニはまた思はず笑い、女の子はきまり悪さうにしました。まったく河原の青じろいあかりの上に、黒い鳥がたくさんたくさんいっぱいに列になってとまってじっと川の微光を受けてゐるのでした。

「かささぎですねえ、頭のうしろのとこに毛がぴんと延びてますから。」青年はとりなすやうに云ひました。

向ふの青い森の中の三角標はすっかり汽車の正面に来ました。そのとき汽車のずうっとうしろの方からあの聞きなれた〔約二字分空白〕番の讃美歌のふしが聞えてきました。よほどの人数で合唱してゐるらしいのでした。青年はさっと顔いろが青ざめ、たって一ぺんそっちへ行きさうにしましたが思ひかへしてまた座りました。かほる子はハンケチを顔にあててしまひました。ジョバンニまで何だか鼻が変になりました。けれどもいつともなく誰<たれ>ともなくその歌は歌ひ出されだんだんはっきり強くなりました。思はずジョバンニもカムパネルラも一緒にうたひ出したのです。

そして青い橄欖<かんらん>の森が見えない天の川の向ふにさめざめと光りながらだんだんうしろの方へ行ってしまひそこから流れて来るあやしい楽器の音ももう汽車のひゞきや風の音にすり耗<へ>らされてずうっとかすかになりました。

「あ孔雀<くじやく>が居るよ。」

「えゝたくさん居たわ。」女の子がこたへました。

ジョバンニはその小さく小さくなっていまはもう一つの緑いろの貝ぼたんのやうに見える森の上にさっさっと青じろく時々光ってその孔雀がはねをひろげたりとぢたりする光の反射を見ました。

「さうだ、孔雀の声だってさっき聞えた。」カムパネルラがかほる子に云ひました。

「えゝ、三十疋ぐらゐはたしかに居たわ。ハープのやうに聞えたのはみんな孔雀よ。」女の子が答へました。ジョバンニは俄<には>かに何とも云へずかなしい気がして思はず
「カムパネルラ、こゝからはねおりて遊んで行かうよ。」とこはい顔をして云はうとしたくらゐでした。

川は二つにわかれました。そのまっくらな島のまん中に高い高いやぐらが一つ組まれてその上に一人の寛<ゆる>い服を着て赤い帽子をかぶった男が立ってゐました。そして両手に赤と青の旗をもってそらを見上げて信号してゐるのでした。ジョバンニが見てゐる間その人はしきりに赤い旗をふってゐましたが俄かに赤旗をおろしてうしろにかくすやうにし青い旗を高く高くあげてまるでオーケストラの指揮者のやうに烈<はげ>しく振りました。すると空中にざあっと雨のやうな音がして何かまっくらなものがいくかたまりもいくかたまりも鉄砲丸<てつぱうだま>のやうに川の向ふの方へ飛んで行くのでした。ジョバンニは思はず窓からからだを半分出してそっちを見あげました。美しい美しい桔梗いろのがらんとした空の下を実に何万といふ小さな鳥どもが幾組も幾組もめいめいせはしくせはしく鳴いて通って行くのでした。

「鳥が飛んで行くな。」ジョバンニが窓の外で云ひました。

「どら、」カムパネルラもそらを見ました。そのときあのやぐらの上のゆるい服の男は俄かに赤い旗をあげて狂気のやうにふりうごかしました。するとぴたっと鳥の群は通らなくなりそれと同時にぴしゃぁんといふ潰<つぶ>れたやうな音が川下の方で起ってそれからしばらくしいんとしました。と思ったらあの赤帽の信号手がまた青い旗をふって叫んでゐたのです。

「いまこそわたれわたり鳥、いまこそわたれわたり鳥。」その声もはっきり聞えました。それといっしょにまた幾万といふ鳥の群がそらをまっすぐにかけたのです。二人の顔を出してゐるまん中の窓からあの女の子が顔を出して美しい頬をかゞやかせながらそらを仰ぎました。

「まあ、この鳥、たくさんですわねえ、あらまあそらのきれいなこと。」女の子はジョバンニにはなしかけましたけれどもジョバンニは生意気ないやだいと思ひながらだまって口をむすんでそらを見あげてゐました。女の子は小さくほっと息をしてだまって席へ戻りました。カムパネルラが気の毒さうに窓から顔を引っ込めて地図を見てゐました。

「あの人鳥へ教へてるんでせうか。」女の子がそっとカムパネルラにたづねました。

「わたり鳥へ信号してるんです。きっとどこからかのろしがあがるためでせう。」カムパネルラが少しおぼつかなさうに答へました。そして車の中はしぃんとなりました。ジョバンニはもう頭を引っ込めたかったのですけれども明るいとこへ顔を出すのがつらかったのでだまってこらへてそのまゝ立って口笛を吹いてゐました。

(どうして僕はこんなにかなしいのだらう。僕はもっとこゝろもちをきれいに大きくもたなければいけない。あすこの岸のずうっと向ふにまるでけむりのやうな小さな青い火が見える。あれはほんたうにしづかでつめたい。僕はあれをよく見てこゝろもちをしづめるんだ。)ジョバンニは熱<ほて>って痛いあたまを両手で押へるやうにしてそっちの方を見ました。(あゝほんたうにどこまでもどこまでも僕といっしょに行くひとはないだらうか。カムパネルラだってあんな女の子とおもしろさうに談<はな>してゐるし僕はほんたうにつらいなあ。)ジョバンニの眼はまた泪<なみだ>でいっぱいになり天の川もまるで遠くへ行ったやうにぼんやり白く見えるだけでした。

そのとき汽車はだんだん川からはなれて崖の上を通るやうになりました。向ふ岸もまた黒いいろの崖が川の岸を下流に下るにしたがってだんだん高くなって行くのでした。そしてちらっと大きなたうもろこしの木を見ました。その葉はぐるぐるに縮れ葉の下にはもう美しい緑いろの大きな苞<はう>が赤い毛を吐いて真珠のやうな実もちらっと見えたのでした。それはだんだん数を増して来てもういまは列のやうに崖と線路との間にならび思はずジョバンニが窓から顔を引っ込めて向ふ側の窓を見ましたときは美しいそらの野原の地平線のはてまでその大きなたうもろこしの木がほとんどいちめんに植ゑられてさやさや風にゆらぎその立派なちゞれた葉のさきからはまるでひるの間にいっぱい日光を吸った金剛石のやうに露がいっぱいについて赤や緑やきらきら燃えて光ってゐるのでした。カムパネルラが「あれたうもろこしだねえ」とジョバンニに云ひましたけれどもジョバンニはどうしても気持がなほりませんでしたからたゞぶっきり棒に野原を見たまゝ「さうだらう。」と答へました。そのとき汽車はだんだんしづかになっていくつかのシグナルとてんてつ器の灯を過ぎ小さな停車場にとまりました。

その正面の青じろい時計はかっきり第二時を示しその振子は風もなくなり汽車もうごかずしづかなしづかな野原のなかにカチッカチッと正しく時を刻んで行くのでした。

その正面の青じろい時計はかっきり第二時を示しその振子は風もなくなり汽車もうごかずしづかなしづかな野原のなかにつカチッカチッと正しく時を刻んで行くのでした。

そしてまったくその振子の音のたえまを遠くの遠くのはてから、かすかなかすかな旋律が糸のやうに流れて来るのでした。「新世界交響楽だわ。」姉がひとりごとのやうにこっちを見ながらそっと云いました。全くもう車の中ではあの黒服の丈高い青年も誰<たれ>もみんなやさしい夢を見てゐるのでした。

(こんなしづかないゝとこで僕はどうしてもっと愉快になれないだらう。どうしてこんなにひとりさびしいのだらう。けれどもカムパネルラなんかあんまりひどい、僕といっしょに汽車に乗ってゐながらまるであんな女の子とばかり談<はな>してゐるんだもの。僕はほんたうにつらい。)ジョバンニはまた両手で顔を半分かくすやうにして向ふの窓のそとを見つめてゐました。すきとほった硝子<ガラス>のやうな笛が鳴って汽車はしづかに動き出し、カムパネルラもさびしさうに星めぐりの口笛を吹きました。

「えゝ、えゝ、もうこの辺はひどい高原ですから。」うしろの方で誰かとしよりらしい人のいま眼がさめたといふ風ではきはき談してゐる声がしました。

「たうもろこしだって棒で二尺も孔<あな>をあけておいてそこへ播<ま>かないと生えないんです。」

「さうですか。川まではよほどありませうかねえ、」

「えゝえゝ河までは二千尺から六千尺あります。もうまるでひどい峡谷になってゐるんです。」

さうそさうこゝはコロラドの高原ぢゃなかったらうか、ジョバンニは思はずさう思ひました。カムパネルラはまださびしさうにひとり口笛を吹き、女の子はまるで絹で包んだ苹果のやうな顔いろをしてジョバンニの見る方を見てゐるのでした。突然たうもろこしがなくなって巨<おほ>きな黒い野原がいっぱいにひらけました。新世界交響楽はいよいよはっきり地平線のはてから湧<わ>きそのまっ黒な野原のなかを一人のインデアンが白い鳥の羽根を頭につけたくさんの石を腕と胸にかざり小さな弓に矢を番<つが>へて一目散に汽車を追って来るのでした。

「あら、インデアンですよ。インデアンですよ。」

黒服の青年も眼をさましました。ジョバンニもカムパネルラも立ちあがりました。

「走って来るわ、あら、走って来るわ。追ひかけてゐるんでせう。」

「いゝえ、汽車を追ってるんぢゃないんですよ。猟をするか踊るかしてるんですよ。」青年はいまどこに居るか忘れたといふ風にポケットに手を入れて立ちながら云ひました。

まったくインデアンは半分は踊ってゐるやうでした。第一かけるにしても足のふみやうがもっと経済もとれ本気にもなれさうでした。にはかにくっきり白いその羽根は前の方へ倒れるやうになりインデアンはぴたっと立ちどまってすばやく弓を空にひきました。そこから一羽の鶴<つる>がふらふらと落ちて来てまた走り出したインデアンの大きくひろげた両手に落ちこみました。インデアンはうれしさうに立ってわらひました。そしてその鶴をもってこっちを見てゐる影ももうどんどん小さく遠くなり電しんばしらの碍子<がいし>がきらっきらっと続いて二つばかり光ってまたたうもろこしの林になってしまひました。こっち側の窓を見ますと汽車はほんたうに高い高い崖の上を走ってゐてその谷の底には川がやっぱり幅ひろく明るく流れてゐたのです。

「えゝ、もうこの辺から下りです。何せこんどは一ぺんにあの水面までおりて行くんですから容易ぢゃありません。この傾斜があるもんですから汽車は決して向ふからこっちへは来ないんです。そら、もうだんだん早くなったでせう。」さっきの老人らしい声が云ひました。

どんどんどんどん汽車は降りて行きました。崖のはじに鉄道がかゝるときは川が明るく下にのぞけたのです。ジョバンニはだんだんこゝろもちが明るくなって来ました。汽車が小さな小屋の前を通ってその前にしょんぼりひとりの子供が立ってこっちを見てゐるときなどは思わずほうと叫びました。

どんどんどんどん汽車は走って行きました。室<へや>中のひとたちは半分うしろの方へ倒れるやうになりながら腰掛にしっかりしがみついてゐました。ジョバンニは思はずカムパネルラとわらひました。もうそして天の川は汽車のすぐ横手をいままでよほど激しく流れて来たらしくときどきちらちら光ってながれてゐるのでした。うすあかい河原なでしこの花があちこち咲いてゐました。汽車はやうやく落ち着いたやうにゆっくりと走ってゐました。

向ふとこっちの岸に星のかたちとつるはしを書いた旗がたってゐました。

「あれ何の旗だらうね。」ジョバンニがやっとものを云ひました。

「さあ、わからないねえ、地図にもないんだもの。鉄の舟がおいてあるねえ。」

「あゝ。」

「橋を架けるとこぢゃないんでせうか。」女の子が云ひました。

「あゝあれ工兵の旗だねえ。架橋演習をしてるんだ。けれど兵隊のかたちが見えないねえ。」

その時向ふ岸ちかくの少し下流の方で見えない天の川の水がぎらっと光って柱のやうに高くはねあがりどぉと烈<はげ>しい音がしました。

「発破<はっぱ>だよ、発破だよ。」カムパネルラはこをどりしました。

その柱のやうになった水は見えなくなり大きな鮭<さけ>や鱒<ます>がきらっきらっと白く腹を光らせて空中に抛<はふ>り出されて円い輪を描いてまた水に落ちました。ジョバンニはもうはねあがりたいくらゐ気持が軽くなって云ひました。

「空の工兵大隊だ。どうだ、鱒やなんかゞまるでこんなになってはねあげられたねえ。僕こんな愉快な旅はしたことない。いゝねえ。」

「あの鱒なら近くで見たらこれくらゐあるねえ、たくさんさかな居るんだな、この水の中に。」

「小さなお魚もゐるんでせうか。」女の子が談<はなし>につり込まれて云ひました。

「居るんでせう。大きなのが居るんだから小さいのもゐるんでせう。けれど遠くだからいま小さいの見えなかったねえ。」ジョバンニはもうすっかり機嫌が直って面白さうにわらって女の子に答へました。

「あれきっと双子のお星さまのお宮だよ。」男の子がいきなり窓の外をさして叫びました。

右手の低い丘の上に小さな水晶ででもこさへたやうな二つのお宮がならんで立ってゐました。

「双子のお星さまのお宮って何だい。」

「あたし前になんべんもお母さんから聴いたわ。ちゃんと小さな水晶のお宮で二つならんでゐるからきっとさうだわ。」

「はなしてごらん。双子のお星さまが何したっての。」

「ぼくも知ってらい。双子のお星さまが野原へ遊びにでてからすと喧嘩したんだらう。」

「さうじゃないわよ。あのね、天の川の岸にね、おっかさんお話なすったわ、……」

「それから彗星<はうきぼし>がギーギーフーギーギーフーて云って来たねえ。」

「いやだわたあちゃんさうじゃないわよ。それはべつの方だわ。」

「するとあすこにいま笛を吹いて居るんだらうか。」

「いま海へ行ってらあ。」

「いけないわよ。もう海からあがっていらっしゃったのよ。」

「さうさう。ぼく知ってらあ、ぼくおはなししよう。」

川の向ふ岸が俄<には>かに赤くなりました。楊<やなぎ>の木や何かもまっ黒にすかし出され見えない天の川の波もときどきちらちら針のやうに赤く光りました。まったく向ふ岸の野原に大きなまっ赤な火が燃されその黒いけむりは高く桔梗いろのつめたさうな天をも焦がしさうでした。ルビーよりも赤くすきとほりリチウムよりもうつくしく酔ったやうになってその火は燃えてゐるのでした。

「あれは何の火だらう。あんな赤く光る火は何を燃やせばできるんだらう。」

ジョバンニが云ひました。

「蝎<<さそり>の火だな。」カムパネルラが又地図と首っ引きして答へました。

「あら、蝎の火のことならあたし知ってるわ。」

「蝎の火って何だい。」ジョバンニがききました。

「蝎がやけて死んだのよ。その火がいまでも燃えてるってあたし何べんもお父さんから聴いたわ。」

「蝎って、虫だらう。」

「えゝ、蝎は虫よ。だけどいゝ虫だわ。」

「蝎いゝ虫ぢゃないよ。僕博物館でアルコールにつけてあるの見た。尾にこんなかぎがあってそれで螫<さ>されると死ぬって先生が云ったよ。」

「さうよ。だけどいゝ虫だわ、お父さん斯<か>う云ったのよ。むかしのバルドラの野原に一ぴきの蝎がゐて小さな虫やなんか殺してたべて生きてゐたんですって。するとある日いたちに見附かって食べられさうになったんですって。さそりは一生けん命遁<に>げて遁げたけどたうとういたちに押へられさうになったわ、そのときいきなり前に井戸があってその中に落ちてしまったわ、もうどうしてもあがられないでさそりは溺<おぼ>れはじめたのよ。そのときさそりは斯う云ってお祈りしたといふの、

あゝ、わたしはいままでいくつのものの命をとったかわからない、そしてその私がこんどいたちにとられようとしたときはあんなに一生けん命にげた。それでもたうとうこんなになってしまった。あゝなんにもあてにならない。どうしてわたしはわたしのからだをだまっていたちに呉れてやらなかったらう。そしたらいたちも一日生きのびたらうに。どうか神さま。私の心をごらん下さい。こんなにむなしく命をすてずどうかこの次にはまことのみんなの幸のために私のからだをおつかひ下さい。って云ったといふの。そしたらいつか蝎<さそり>はじぶんのからだがまっ赤なうつくしい火になって燃えてよるのやみを照らしてゐるのを見たって。いまでも燃えてるってお父さん仰<おつしや>ったわ。ほんたうにあの火それだわ。」

「さうだ。見たまへ。そこらの三角標はちゃうどさそりの形にならんでゐるよ。」

ジョバンニはまったくその大きな火の向ふに三つの三角標がちゃうどさそりの腕のやうにこっちに五つの三角標がさそりの尾やかぎのやうにならんでゐるのを見ました。そしてほんたうにそのまっ赤なうつくしいさそりの火は音なくあかるくあかるく燃えたのです。

その火がだんだんうしろの方になるにつれてみんなは何とも云へずにぎやかなさまざまの楽の音や草花の匂<にほひ>のやうなもの口笛や人々のざわざわ云ふ声やらを聞きました。それはもうぢきちかくに町か何かがあってそこにお祭でもあるといふやうな気がするのでした。

「ケンタウル露をふらせ。」いきなりいままで睡ってゐたジョバンニのとなりの男の子が向うの窓を見ながら叫んでゐました。

あゝそこにはクリスマストリイのやうにまっ青な唐檜<たうひ>かもみの木がたってその中にはたくさんのたくさんの豆電燈がまるで千の蛍<ほたる>でも集ったやうについてゐました。

「あゝ、さうだ、今夜ケンタウル祭だねえ。」

「あゝ、こゝはケンタウルの村だよ。」カムパネルラがすぐ云ひました。〔以下原稿一枚?なし〕


「ボール投げなら僕決してはづさない。」

男の子が大威張りで云ひました。

「もうぢきサウザンクロスです。おりる支度をして下さい。」青年がみんなに云ひました。

「僕も少し汽車へ乗ってるんだよ。」男の子が云ひました。カムパネルラのとなりの女の子はそはそは立って支度をはじめましたけれどもやっぱりジョバンニたちとわかれたくないやうなやうすでした。

「ここでおりなけぁいけないのです。」青年はきちっと口を結んで男の子を見おろしながら云ひました。

「厭<いや>だい。僕もう少し汽車へ乗ってから行くんだい。」

ジョバンニがこらへ兼ねて云ひました。

「僕たちと一緒に乗って行かう。僕たちどこまでだって行ける切符持ってるんだ。」

「だけどあたしたちもうこゝで降りなけぁいけないのよ。こゝ天上へ行くとこなんだから。」女の子がさびしさうに云ひました。

「天上へなんか行かなくたっていゝぢゃないか。ぼくたちこゝで天上よりももっといゝとこをこさへなけぁいけないって僕の先生が云ったよ。」

「だっておっ母さんも行ってらっしゃるしそれに神さまが仰<お>っしゃるんだわ。」

「そんな神さまうその神さまだい。」

「あなたの神さまうその神さまよ。」

「さうぢゃないよ。」

「あなたの神さまってどんな神さまですか。」青年は笑ひながら云ひました。

「ぼくほんたうはよく知りません、けれどもそんなんでなしにほんたうのたった一人の神さまです。」

「ほんたうの神さまはもちろんたった一人です。」

「あゝ、そんなんでなしにたったひとりのほんたうのほんたうの神さまです。」

「だからさうぢゃありませんか。わたくしはあなた方がいまにそのほんたうの神さまの前にわたくしたちとお会ひになることを祈ります。」青年はつゝましく両手を組みました。女の子もちゃうどその通りにしました。みんなほんたうに別れが惜しさうでその顔いろも少し青ざめて見えました。ジョバンニはあぶなく声をあげて泣き出さうとしました。

「さあもう仕度はいゝんですか。ぢきサウザンクロスですから。」

あゝそのときでした。見えない天の川のずうっと川下に青や橙<だいだい>やもうあらゆる光でちりばめられた十字架がまるで一本の木といふ風に川の中から立ってかゞやきその上には青じろい雲がまるい環<わ>になって後光のやうにかかってゐるのでした。汽車の中がまるでざわざわしました。みんなあの北の十字のときのやうにまっすぐに立ってお祈りをはじめました。あっちにもこっちにも子供が瓜<うり>に飛びついたときのやうなよろこびの声や何とも云ひやうない深いつゝましいためいきの音ばかりきこえました。そしてだんだん十字架は窓の正面になりあの苹果<りんご>の肉のやうな青じろい環の雲もゆるやかにゆるやかに繞<めぐ>ってゐるのが見えました。

「ハルレヤハルレヤ。」明るくたのしくみんなの声はひゞきみんなはそのそらの遠くからつめたいそらの遠くからすきとほった何とも云へずさはやかなラッパの声をききました。そしてたくさんのシグナルや電燈の灯のなかを汽車はだんだんゆるやかになりたうとう十字架のちゃうどま向ひに行ってすっかりとまりました。

「さあ、下りるんですよ。」青年は男の子の手をひきだんだん向ふの出口の方へ歩き出しました。

「ぢゃさよなら。」女の子がふりかへって二人に云ひました。

「さよなら。」ジョバンニはまるで泣き出したいのをこらへて怒ったやうにぶっきり棒に云ひました。女の子はいかにもつらさうに眼を大きくしても一度こっちをふりかへってそれからあとはもうだまって出て行ってしまひました。汽車の中はもう半分以上も空いてしまひ俄<には>かにがらんとしてさびしくなり風がいっぱいに吹き込みました。

そして見てゐるとみんなはつゝましく列を組んであの十字架の前の天の川のなぎさにひざまづいてゐました。そしてその見えない天の川の水をわたってひとりの神々しい白いきものの人が手をのばしてこっちへ来るのを二人は見ました。けれどもそのときはもう硝子<ガラス>の呼子は鳴らされ汽車はうごき出しと思ふうちに銀いろの霧が川下の方からすうっと流れて来てもうそっちは何も見えなくなりました。たゞたくさんのくるみの木が葉をさんさんと光らしてその霧の中に立ち黄金<きん>の円光をもった電気栗鼠<りす>が可愛い顔をその中からちらちらのぞいてゐるだけでした。


そのときすうっと霧がはれかゝりました。どこかへ行く街道らしく小さな電燈の一列についた通りがありました。それはしばらく線路に沿って進んでゐました。そして二人がそのあかしの前を通って行くときはその小さな豆いろの火はちゃうど挨拶でもするやうにぽかっと消え二人が過ぎて行くときまた点<つ>くのでした。

ふりかへって見るとさっきの十字架はすっかり小さくなってしまひほんたうにもうそのまゝ胸にも吊<つる>されさうになり、さっきの女の子や青年たちがその前の白い渚<なぎさ>にまだひざまづいてゐるのかそれともどこか方角もわからないその天上へ行ったのかぼんやりして見分けられませんでした。

ジョバンニはあゝと深く息しました。

「カムパネルラ、また僕たち二人きりになったねえ、どこまでもどこまでも一緒に行かう。僕はもうあのさそりのやうにほんたうにみんなの幸のためならば僕のからだなんか百ぺん灼<や>いてもかまはない。」

「うん。僕だってさうだ。」カムパネルラの眼にはきれいな涙がうかんでゐました。

「けれどもほんたうのさいはひは一体何だらう。」ジョバンニが云ひました。

「僕わからない。」カムパネルラがぼんやり云ひました。

「僕たちしっかりやらうねえ。」ジョバンニが胸いっぱい新らしい力が湧<わ>くやうにふうと息をしながら云ひました。

「あ、あすこ石炭袋だよ。そらの孔<あな>だよ。」カムパネルラが少しそっちを避けるやうにしながら天の川のひととこを指さしました。ジョバンニはそっちを見てまるでぎくっとしてしまひました。天の川の一とこに大きなまっくらな孔がどほんとあいてゐるのです。その底がどれほど深いかその奥に何があるかいくら眼をこすってのぞいてもなんにも見えずたゞ眼がしんしんと痛むのでした。ジョバンニが云ひました。

「僕もうあんな大きな暗<やみ>の中だってこはくない。きっとみんなのほんたうのさいはひをさがしに行く。どこまでもどこまでも僕たち一緒に進んで行かう。」

「あゝきっと行くよ。あゝ、あすこの野原はなんてきれいだらう。みんな集ってるねえ。あすこがほんたうの天上なんだ。あっあすこにゐるのぼくのお母さんだよ。」カムパネルラは俄<には>かに窓の遠くに見えるきれいな野原を指して叫びました。

ジョバンニもそっちを見ましたけれどもそこはぼんやり白くけむってゐるばかりどうしてもカムパネルラが云ったやうに思はれませんでした。何とも云へずさびしい気がしてぼんやりそっちを見てゐましたら向ふの河岸に二本の電信ばしらが丁度両方から腕を組んだやうに赤い腕木をつらねて立ってゐました。

「カムパネルラ、僕たち一緒に行かうねえ。」ジョバンニが斯<こ>う云ひながらふりかへって見ましたらそのいままでカムパネルラの座ってゐた席にもうカムパネルラの形は見えずただ黒いびろうどばかりひかってゐました。ジョバンニはまるで鉄砲丸<てつぱうだま>のやうに立ちあがりました。そして誰<たれ>にも聞えないやうに窓の外へからだを乗り出して力いっぱいはげしく胸をうって叫びそれからもう咽喉<のど>いっぱい泣きだしました。もうそこらが一ぺんにまっくらになったやうに思ひました。

ジョバンニは眼をひらきました。もとの丘の草の中につかれてねむってゐたのでした。胸は何だかおかしく熱<ほて>り頬<ほほ>にはつめたい涙がながれてゐました。

ジョバンニはばねのやうにはね起きました。町はすっかりさっきの通りに下でたくさんの灯を綴<つづ>ってはゐましたがその光はなんだかさっきよりは熱したといふ風でした。そしてたったいま夢であるいた天の川もやっぱりさっきの通りに白くぼんやりかゝりまっ黒な南の地平線の上では殊にけむったやうになってその右には蠍座<さそりざ>の赤い星がうつくしくきらめき、そらぜんたいの位置はそんなに変ってもゐないやうでした。

ジョバンニは一さんに丘を走って下りました。まだ夕ごはんをたべないで待ってゐるお母さんのことが胸いっぱいに思ひだされたのです。どんどん黒い松の林の中を通ってそれからほの白い牧場の柵<さく>をまはってさっきの入口から暗い牛舎の前へまた来ました。そこには誰かゞいま帰ったらしくさっきなかった一つの車が何かの樽<たる>を二つ乗っけて置いてありました。

「今晩は、」ジョバンニは叫びました。

「はい。」白い太いずぼんをはいた人がすぐ出て来て立ちました。

「何のご用ですか。」

「今日牛乳がぼくのところへ来なかったのですが」

「あ済みませんでした。」その人はすぐ奥へ行って一本の牛乳瓶<ぎうにゆうびん>をもって来てジョバンニに渡しながらまた云ひました。

「ほんたうに、済みませんでした。今日はひるすぎうっかりしてこうしの柵をあけて置いたもんですから大将早速親牛のところへ行って半分ばかり呑<の>んでしまひましてね……」その人はわらひました。

「さうですか。ではいたゞいて行きます。」

「えゝ、どうも済みませんでした。」

「いゝえ。」

ジョバンニはまだ熱い乳の瓶<びん>を両方のてのひらで包むやうにもって牧場の柵を出ました。

そしてしばらく木のある町を通って大通りへ出てまたしばらく行きますとみちは十文字になってその右手の方、通りのはづれにさっきカムパネルラたちのあかりを流しに行った川へかゝった大きな橋のやぐらが夜のそらにぼんやり立ってゐました。

ところがその十字になった町かどや店の前に女たちが七八人ぐらゐづつ集って橋の方を見ながら何かひそひそ談<はな>してゐるのです。それから橋の上にもいろいろなあかりがいっぱいなのでした。

ジョバンニはなぜかさあっと胸が冷たくなったやうに思ひました。そしていきなり近くの人たちへ
「何かあったんですか。」と叫ぶやうにきゝました。

「こどもが水へ落ちたんですよ。」一人が云ひますとその人たちは一斉にジョバンニの方を見ました。ジョバンニはまるで夢中で橋の方へ走りました。橋の上は人でいっぱいで河が見えませんでした。白い服を着た巡査も出てゐました。

ジョバンニは橋の袂<たもと>から飛ぶやうに下の広い河原へおりました。

その河原の水際に沿ってたくさんのあかりがせはしくのぼったり下ったりしてゐました。向ふ岸の暗いどてにも火が七つ八つうごいてゐました。そのまん中をもう烏瓜<からすうり>のあかりもない川が、わづかに音をたてゝ灰いろにしづかに流れてゐたのでした。

河原のいちばん下流の方へ洲<す>のやうになって出たところに人の集りがくっきりまっ黒に立ってゐました。ジョバンニはどんどんそっちへ走りました。するとジョバンニはいきなりさっきカムパネルラといっしょだったマルソに会ひました。マルソがジョバンニに走り寄ってきました。

「ジョバンニ、カムパネルラが川へはいったよ。」

「どうして、いつ。」

「ザネリがね、舟の上から烏うりのあかりを水の流れる方へ押してやらうとしたんだ。そのとき舟がゆれたもんだから水へ落っこったらう。するとカムパネルラがすぐ飛びこんだんだ。そしてザネリを舟の方へ押してよこした。ザネリはカトウにつかまった。けれどもあとカムパネルラが見えないんだ。」

「みんな探してるんだらう。」

「あゝすぐみんな来た。カムパネルラのお父さんも来た。けれども見附からないんだ。ザネリはうちへ連れられてった。」

ジョバンニはみんなの居るそっちの方へ行きました。そこに学生たち町の人たちに囲まれて青じろい尖<とが>ったあごをしたカムパネルラのお父さんが黒い服を着てまっすぐに立って右手に持った時計をじっと見つめてゐたのです。

みんなもじっと河を見てゐました。誰<たれ>も一言も物を云ふ人もありませんでした。ジョバンニはわくわくわくわく足がふるへました。魚をとるときのアセチレンランプがたくさんせはしく行ったり来たりして黒い川の水はちらちら小さな波をたてゝ流れてゐるのが見えるのでした。

下流の方の川はゞ一ぱい銀河が巨<おほ>きく写ってまるで水のないそのまゝのそらのやうに見えました。

ジョバンニはそのカムパネルラはもうあの銀河のはづれにしかゐないといふやうな気がしてしかたなかったのです。

けれどもみんなはまだ、どこかの波の間から、
「ぼくずゐぶん泳いだぞ。」と云ひながらカムパネルラが出て来るか或<ある>いはカムパネルラがどこかの人の知らない洲<す>にでも着いて立ってゐて誰かの来るのを待ってゐるかといふやうな気がして仕方ないらしいのでした。けれども俄<には>かにカムパネルラのお父さんがきっぱり云ひました。

「もう駄目<だめ>です。落ちてから四十五分たちましたから。」

ジョバンニは思はずかけよって博士の前に立って、ぼくはカムパネルラの行った方を知ってゐますぼくはカムパネルラといっしょに歩いてゐたのですと云はうとしましたがもうのどがつまって何とも云へませんでした。すると博士はジョバンニが挨拶に来たとでも思ったものですか、しばらくしげしげジョバンニを見てゐましたが
「あなたはジョバンニさんでしたね。どうも今晩はありがたう。」と叮ねいに云ひました。

ジョバンニは何も云へずにたゞおじぎをしました。

「あなたのお父さんはもう帰ってゐますか。」博士は堅く時計を握ったまゝまたきゝました。

「いゝえ。」ジョバンニはかすかに頭をふりました。

「どうしたのかなあ。ぼくには一昨日<をととひ>大へん元気な便りがあったんだが。今日あたりもう着くころなんだが。船が遅れたんだな。ジョバンニさん。あした放課後みなさんとうちへ遊びに来てくださいね。」

さう云ひながら博士はまた川下の銀河のいっぱいにうつった方へじっと眼を送りました。

ジョバンニはもういろいろなことで胸がいっぱいでなんにも云へずに博士の前をはなれて早くお母さんに牛乳を持って行ってお父さんの帰ることを知らせようと思ふともう一目散に河原を街の方へ走りました。

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