ポラン広場東京 Home ポラン広場東京 Home ポランのショップ YA・O・YA ポラン広場東京のセンター
ポラン広場東京への招待
有機農業ってなぁに?
ポラン広場東京のYA・O・YA
ポラン広場の宅配
ポラン広場東京のセンター
生産製造者紹介
やさいデータベース
やさいとレシピ
はてなの泉
イベント情報
ネットワーキング
定款/入会案内
特定非営利活動法人ポラン広場東京
 
 
ネットワーキング
2011.04.30 〜 05.03 福島・宮城・岩手  視察報告
2011/05/11
神足義博
NPOポラン広場東京代表理事/(株)ポラン オーガニックフーズ デリバリ(略称 POD) 東京・青梅
森 秀介
NPOポラン広場東京加工製造部門担当理事/(株)げんきタウン 大阪・豊中
佐藤真平
(株) POD 営業三課店舗事業係 茨城・つくば市
■前文
■被災地を訪ねて
■福島市の原発事故災害関連の状況
■大震災51日目 4月30日(土) 晴時々曇 (福島県いわき市)
■大震災52日目 5月1日(日) 小雨後に曇 (宮城県石巻市、岩手県陸前高田市・大船渡市)
■大震災53日目 5月2日(月) 晴一時曇 (岩手県陸前高田市、宮城県気仙沼市、福島県喜多方市)
■大震災54日目 5月3日(火) 晴 (福島県須賀川市)

■前文

4月30日より5月3日に、3.11東日本大震災及びフクシマ原発事故緊急事態宣言の下にあるポラン広場東京関係生産者を福島県・宮城県・岩手県に視察訪問をした報告です。
神足が主にその訪問内容を記し、同行した森さんの文章を加え、同時に、茨城県つくば市にあるPOD直営店KIVAのスタッフ佐藤真平さんの個人的報告で、福島に関した内容も加えました。
[森]は森秀介さんが、[佐藤]は佐藤真平さんが、他は神足が記します。短い報告書ではあっても、それぞれの視点を加えることで少しでも重層的に被災地の現状をお伝えしたいと考えるからです。
(文責 神足義博)

page top

■被災地を訪ねて

[森] 4月30日より4日間、神足代表と福島、宮城北部、岩手南部の海岸線を中心に被災地を訪ねました。
海岸線の町はニュースや雑誌でみる画像そのままです。何かもやがかかったような色彩で、海鳥の声以外は無音です。その無音の中、遠くで重機がスローモーションのように動いています。道路は確保されていましたが、信号も標識もない中を、車はクラクションを鳴らすこともなく秩序をもって静かに流れています。

全体に動いている人や作業をする人と重機の数は少なく感じました。被災地の広さを考えると仕方のないことと思います。
あちこちで献身的に働く自衛隊の皆さん、野営テントの不自由な環境の中で過ごし、作業をする。心からご苦労様と感じました。瓦礫の中で交通整理をしている警官に道を訊ねたら、大阪府警の方でした。目的地に着いて、その近所で重機を操作している人に訪問先のメーカーさんの所在を訊ねたら、大阪からユンボを持って手伝いに来た、阪神のときは世話になったでなぁ・・・日本人なかなか捨てたものではありません。

港は、福島県小名浜漁港・四倉漁港・久ノ浜漁港・宮城県石巻港・岩手県大船渡港を訪ねました。わずか1割の漁船しか残らなかったとのことです。打ち上げられた漁船はバランスを失ったため廃船にされます、一隻1億円だそうです。魚網とブイ・瓦礫・トロ箱・ロープが絡み合って海岸に打上げられたり、港に漂っています。
大きな港ほどヘドロと魚の腐臭と油の臭いが混ざりあっています。港湾施設の充実が海の循環を拒み、大量のヘドロが溜まっていました。打ち上げられ、引き戻され、大量に流れ出た瓦礫とともに浄化には相当の時間を要するとのことです。
漁師仲間の半分が亡くなられたと聞きました。9割が消失した漁船、壊滅的な養殖筏、漁港の製氷工場、冷凍倉庫、漁船のメンテナンス工場、塗料屋さん、無線やレーダーの会社、そして水産一次加工所、その販売所、それを食べさせる店などなどが一体となって機能してきた漁港がマイナスからの出発になってしまいました。個人のレベル、一会社のレベルでどうなるものでもありません。2ヶ月たって具体的再建の方法が聞こえてきません、今こそ政治が策を立てるべき時と思います。

たくさんの方にお会いしました、中でも八木澤商店の河野会長ご一家には大変お世話になりました。震災当日の様子、これからの陸前高田の街づくりをお話いただきました。現状を粛々と受入れ、未来に向かって話される会長、そこに奥様、新社長のご長男、お嬢さんたちもそれぞれの意見を述べ、時に笑いながら、時に涙ぐみ、時に熱く…八木澤商店のことだけでなく陸前高田の街づくりを…逆に元気付けられてしまいました。

4日間見聞きした気持ちをそのままに綴りました。目に見え、記憶に残る震災ですが、目に見えないもう一つの人災も深く皆さんの心に影を落としていました。現在進行形であり、情報が本当に開示されているのかも疑問であり、注意深く見守りたいと思います。

page top

■福島市の原発事故災害関連の状況

[佐藤] 先週の休み、4月27日(水)〜29日(金)を利用して、実家のある福島市へ帰ってきました。
報道にもあるとおり、福島県で飯舘村や浪江町の次に放射線の値が高いのが県内では福島市です。そして、残念なことに、私の出身地区はそのなかでも数値が高く、小・中学校は屋外活動制限校に指定されています。
町は一見平穏です。人々は平常どおりの生活を取り戻したかのようにみえます。ですが、町に子供の姿はなく、県の災害対策本部は福島市にありますから、自衛隊車両、救急車両、警察車両がひんぱんに通ります。
私の家の前の道路は浪江町や相馬市とをつなぐ国道です。相馬方面へ向かうヘリコプターのルートも私の家の頭上と聞きました。

地元の保育園を尋ねて話を聞きましたが、子供たちはほとんど外へ出られません。出られたとしても、天候や風向きなどの条件がそろった時のみで、1日に30分と言っていました。地元の医師と相談しながら実施しているそうです。
友達が保母さんをしており、子供たちには「お外には、ホウシャノウっていうあぶないのがあるから、絶対にころんじゃだめだよ〜」と言っているそうです。子供も、小さいながらにそのことを理解している、とも言っていました。
また、室内にいる時間が長く感染症などの危険がそろそろ出てきている、とも。特に乳幼児のクラスでは、放射性物質の脅威から、窓さえ開けられません。
保育園は、働いている父母のお子さんのための施設なので開園をせざるを得ません。
せめて土壌の入替えをしてほしい、という声は多くありますが思うように進んでいませんでした。

日本弁護士連合会が、4/22日にこの件に関して声明を出しています。
http://www.nichibenren.or.jp/ja/opinion/statement/110422_2.html
原子力資料情報室も、この件で政府へ要望書を提出しています
http://www.cnic.jp/modules/news/article.php?storyid=1102
(追記 : その後、市民などからの取り下げ要求の結果、5/27に文部科学省から「1msvを努力目標とする」 という見解が出された)

福島県民への差別もあります。
「県外へは差別されるから行きたくない」という人がほとんどでした。具体的な差別をされたという事実と、そのうわさが飛び交い、住民の間で差別・被差別意識がかなり浸透してきている、という印象を受けました。

どんな言葉でこの報告を閉じればいいか、わかりません。
「放射能」という目にみえない脅威と共に、福島市の人たちは暮らしていました。また、原発の被災地でありながら、浜からの避難民の受け入れ先でもありました。津波や地震と違って、物理的な被害は少ないです。ですが、現地の人から話や思っていることを聞き出すと、悩みや恐れ、苦しみ、怒りなどが溢れてきます。
事故以降に変わってしまった福島市の現実は、あまりにも悲惨すぎる、と感じました。

page top

■大震災51日目 4月30日(土) 晴時々曇 福島県いわき市

早朝、東京都青梅市のNPO事務所/POD本社前から出発
神戸8時25分発、茨城空港9時40分着の森さん(NPO理事/(株)げんきタウン代表)と合流する。
3月11日が開港一周年になる茨城空港周辺の東北地方太平洋沖地震の規模は震度6弱、東にある鉾田市では震度6強と記録されている。ターミナルビルの天井の落下や破損があったが、空港の基本施設は使用可能で3月14日から運航は再開している。

常磐自動車道を北上
途中の北茨城市では、津波で海岸から約1kmの内陸部まで浸水していたというし、茨城県沿岸部のほぼ全域の約23平方kmが浸水した。今走行している地点から南北に、千葉・茨城・福島・宮城・岩手・青森の6県の総浸水面積は、東京23区に匹敵する計561平方kmに及んでいる。

福島県いわき市の水産加工食品取扱い(株)三陸水産を目指して車を進める。福島県寄りになるにつれて車の流量が明らかに減り始める。渋滞などはどこにもない。
正午にいわき市内に入り、小名浜港に向かう。下り坂が海にひらけるとそこに海岸沿いの大通りがあり、電気が切れ作動していない信号のある交差点の向こうには破壊された港と港湾設備、そして油でどろどろになった船体や沈みかけている船が見える。

13時、(株)三陸水産に着く。会社敷地は道路から10cm沈下している様に見える。周辺は元々水田地帯で土盛りをして建造したからと雨澤社長から聞く。三陸沿岸の漁師の半分以上の方が亡くなったことと船の9割が失われたことを再確認する。うに・あわびは年間の操業停止が決まった。三陸わかめの養殖は、秋10月に種付けをせねば来春には間にあわない、なるべく早く回復したいのだが…そのためにしなければならないことが山のようにあるので、今すぐに具体的なことはできないかもしれない。一般的なことでは、設備のあるところから順々に、例えば小名浜港などは一番早く再開の可能性がある。同業の水産加工会社丸十猪腰商店社長が同席されて、挨拶を交わす。丸十猪腰商店の加工場のある久之浜町の津波被災状況と原発事故の影響を聞く。福島第一原発から30〜32km圏に位置する久之浜町で部落区長をする猪腰氏は、補償面ではいわき市が30km圏内同等の扱い(三陸水産は第一原発から45kmに位置する)になっているが、行政の対策説明会に出席しても、学者がグラフや表で説明をするばかりで現実的な話はされていないと沈痛の表情で語られる。漁業の回復には、海・港湾そのものの清掃と施設にこびりついた油汚れなどを掃除することから始めなければならない。そして、船があるか、網があるか、あったとしても、漁が出来ても、港があるか、冷凍設備は、氷は、加工場はあるか、流通する者はいるのか。そして、製品・商品があっても消費されるのか…と。
漁民の多くは60歳を超えている。後継者もなく、今更投資ができるのか、体力があるかなど…と、漁民のなかにはやる気ナシもいて、この際廃業を考える者もいる。

猪腰氏は久之浜町での津波体験を次の様に語った。自宅にいた、地震発生30分後に津波の第一波が襲来した、もたもたする祖母を急き立てながら家族を車に乗せて橋を渡り対岸の高台に避難した。その3分後に10m以上の津波が襲った。二波、三波があったと聞くが自分は見ていない。隣の家は家族6人全員が津波で死んだんだ。現場を見ていってくれ。雨澤社長が案内してくれるよ。

雨澤さんの案内で
14時頃、四倉町「道の駅」周辺。海岸の通りの信号機は作動していない。陸側の家々は一階部分が筒抜けになって建ち、周辺の柵や標識などの軽い造作物はくねくねと曲がり折れている。海側の破壊された四倉魚市場と倉庫。海に流れ込む水路に眼をやると海に接するところで烈しく白い波しぶきが立っている。地盤が沈下して海からの逆流が生じていると説明を受ける。

14時20分頃、四倉港で港に沈み腹をみせている漁船を何隻も見る。

14時30分頃、いわき市久之浜町。河口川岸にある丸十猪腰商店の黄色く塗られた加工場はひしゃげてそこにある。きけん立入禁止と通行止めの柵のある橋に立ち、車で逃げた坂道とその先に高台を見る。ここは、第一原発から32km地点でもある。数人のボランティアの方が黙々と道路脇の泥を清掃している。

14時40分頃、久之浜港。削られ剥き出しの赤土と根こそぎ浮き上がった木々が無残な周辺の山と久之浜漁業協同組合の破壊された施設が見える。港には沈んだ漁船が数知れずある、が、それでも二十隻以上の漁船が整った姿で宝福丸・第八勝丸・稲荷丸・みどり丸と美しく並んでいる。順々に回復をし、再開をする兆しの姿として、その船列を背景に雨澤社長をカメラに収める。


(久之浜港で船列を背景に雨澤進氏)

14時55分頃、[森] 津波によって破壊された町並みに案内されました。復旧作業をしているたくさんのひとと重機がみえる福島・久ノ浜です。眼を浜に移すとひっくり返った車が見えます。その海岸が目の前にある住宅地に一階だけが津波で打ち抜かれた建物が残っています。ピンクの壁面にレッドのエントランスとその上のブルーの三角屋根、白カモメが羽ばたく絵柄のカラフルな久ノ浜幼稚園の建物の無残な一階部分…園児たちのことを雨澤さんに尋ねると、こどもたちは先生の機転で高台に避難し全員無事だったそうです。ほっとしました。

15時30分、会社に戻り、支援物資を手渡す。社員の方に全員で見送ってもらう。

附記 (株)三陸水産の営業再開に際して、以下のメッセージが発信されています。
今後の三陸水産の基本を以下の通りさせて頂きますので、ご理解を頂けますようにお願い申し上げます。
1. 原発事故後の魚介類は一切お届け致しません
2. (新)三陸わかめ等の海草類、紅鮭等は震災前に確保した商品をお届けします
3. 今後の新しい商品は、汚染のない海からの大自然からの贈り物をお届けします
4. 加工に使う水は、ミネラルウォーター使用と致します
5. その他、皆様からのご希望の商品を模索し、安心で、安全な海産物の提供に徹します

福島県の東部地方は浜通りと呼ばれ、阿武隈高地と太平洋に挟まれた南北に長い沿岸地方である。いわき市、広野町、楢葉町、富岡町、大熊町、双葉町、浪江町、南相馬市、相馬市の先へと続く。そして、今、浜通りとこれから通過する中通りの福島県北西地域は余震が続くと同時に原発事故により、文字通り塗炭の苦しみ、泥水と業火の渦中にある。
磐越自動車道で阿武隈高地と西の奥羽山脈との間に挟まれた中通り方面に向かい、郡山JCTで東北自動車道につながる。郡山市から福島市方面へ進める。福島県の農業生産量の全国における順位は水稲4位・サヤインゲン2位・キュウリ3位・トマト7位・桃2位・梨3位・リンゴ6位など、産出額でも全国11位。又、ヒラメ漁獲量3位・サンマ3位・カレイ4位。畜産・林業とその副産物なども含めて第一次産業が盛んな県の食料自給率は、供給熱量ベースで85%、生産額ベースでは110%である。今後のことを熟考しなければならないと思う。

宿泊地は大崎市鳴子温泉に。
翌日の予定から仙台周辺の宿を探すが、福島・宮城・岩手南部の東北道より東(太平洋)側の宿泊は空きがない。唯一、山側の温泉地帯に空きがあるが、この状況に相応の宿を探すのには苦労した。宿で聞くに、救援や復興関係者、避難の人でどこも満杯とのこと。私達の宿も損害保険会社職員の制服であふれている。

page top

■大震災52日目 5月1日(日) 小雨後に曇 宮城県石巻市、岩手県陸前高田市・大船渡市

5時起床、7時には朝食を終え直ぐに出発。東北道を突っ切り、古川市を抜け海側へ東に進む。涌谷町を抜け、石巻線の2両連結列車を右に見ながら進むうちに10時前に石巻市に到着。通りの家並みと商店街に残る地震と津波の爪痕をカメラに収めようとするが、後片付けをしているひとをみるとシャッターを押すことができない。橋を渡り、女川街道から今朝の目的地、げんきタウンの原料メーカー・三陸フーズがある宮城県石巻市大門町に到着する。未だ、経営者とは連絡がとれていない。

[森] 石巻市の湾岸地域、石巻漁港のヘドロを巻き上げた津波は旧北上川を溢れた濁流とぶつかり合い、牧山という小高い丘にあたり引き返す、すさまじいばかりの破壊の爪痕です。
車は油とヘドロの為に雪道のようにスリップしながらの徐行運転でした。

近所の方が津波の話をしてくださる。この大門町周辺は南側の石巻湾からと西側の旧北上川からの二つの津波に襲われ、押しやられた瓦礫が寄せ集められたように集中したとのことです。「三陸フーズ」の看板の下端まで津波の跡があるだろう。自分の家は1m高のコンクリート製の基礎部分の上に家があるが、その一階の天井までは水が来た、二階部分は大丈夫だったので助かった。大変な被害になり、私の家だけですよ、まだ住んでいるのは。他の人の姿は見ません。道路だけは市が通れるようにしたが、後は手付かずのままです。仕事の関係者なのですが、もし、会社の方に会われたら連絡を願いたいと伝えてもらえますかと名刺を渡しお願いしました。気持ちの良い方で、受け取ってくださいました。この道のまっすぐ先が石巻港になるよとも教えてくださいました。

10時20分過ぎに、その方に教わったとおりに港の方角に、途中、多勢の自衛隊員が復旧作業をしている脇を徐行して進みます。10分後、県道240号石巻女川線に出ます。信号機のコンクリート柱が根元から倒れています。街路樹の高所には数知れないビニールや布切れが絡まりついています。それでも主要道路なのだろうか、走行に支障のないように路上は復しています。横断し、右に左になぎ倒されかかった電柱が立ち、亀裂と陥没がところどころにある通りを直進します。午前中の降雨だけではない濡れ方をした泥々の地面と破壊されつくした港湾施設が眼の前に広がってきます。静寂のなかに魚介類の強烈な腐敗臭が立ちこめ、それに油やヘドロの異臭が混じる。気づくと遠くで海鳥の鳴き声が聞こえます。前進し、船が見えてくる。近づくと陸に乗り上げた赤と青に塗り分けられた大型漁船が傾きそこにあります。近くにクレーン車が1台止まっているが、ひとの姿はありません。船の周りには数知れないウミネコが地面を歩き回り、空には大きな翼をひろげて、うるさくうるさく鳴いています。県道に引き返す間も人影をほとんど見ることはなく、重機1台がゴミを片付けているばかりでした。

午後の訪問地に向かう。国道398号で女川町回りに進みたいのだが時間に余裕がない。スタート部分を三陸自動車道で北へ30kmの県北・岩手県境の登米市方面(震度6強被災地)に進み、12時30分頃に国道398号に出る。山側から東に志津川湾を目指す。山の中に突然の光景が広がる。瓦礫が下方にどこまでも連なり、今、船腹に「八重丸」と読める小型漁船を認め、車を停止する。息ができず、考えることができない。周りは森林なのに、この光景は何か。

[森] 志津川に添って398号線を海岸に向かいます、道の両側は林が続き山間部を抜けかかると瓦礫の山が突然現れ、その中に漁船が点々としています。遠くの薄茶けた広がりの中、赤い鉄骨を剥きだした南三陸町合同庁舎と志津川病院の建物が見えます。ナビは踏み切りを指示しますが右も左も線路は敷石ごと剥がされて流れ、線路のないトンネルが薄もやの中に見えていました。

宮城県南三陸町に入る。三階建て鉄筋コンクリート造りのアパートの屋上に車が車輪を天に向けて載っているのを見る。ゆっくりと下勾配の道を降りて行き、左に八幡(はちまん)川が流れ、右側の瓦礫の街に公立志津川病院を見る。志津川湾からの大津波が海岸から押し寄せると同時に、八幡川も上流に凄まじい勢いで押し上げられ、間もなく川からの濁流が街に流れ込み、海からの津波とひとつになり陸地は水没し、町は消滅してしまった。森さんが、報道で映し出された病院の模様を話している。今は人の気配はない。ここに来るまでも、高台に残った住宅地の住民の車だろうか、その方角からか或いはその方角への車が走る時だけ音がする。ひとも犬も猫も鳥もいない。風が吹けばその風の音だけが響く。いまはとにかく何も音をたてるものがないのだ。

南三陸町は、海岸の地形から津波の影響を受けやすく、これまでも、平安前期869年の貞観地震大津波や1896(明治29)年の明治三陸大津波、1933(昭和8)年の昭和三陸大津波、1960(昭和35)年のチリ地震津波によって大きな被害を受けている。3.11東北地方太平洋沖地震は貞観地震以来の1000年刻みの地殻変動だった。

志津川湾に沿った国道45号線にT字路を左折して入る。ここより少し南の宮城県牡鹿半島から国定公園であり、いわゆる三陸海岸の始まりである。そこから国立公園指定の岩手県沿岸部のリアス式海岸を経て隆起海岸と変化し、青森県南東端までの約600kmの海岸線が続く。

途中13時、真正面に南北に走るJR東日本・気仙沼線の陸橋が見えてくる。右手の小高い位置に駅跡があり、十数本の橋脚の上を走るレールは3ヶ所で崩落している。周囲の緑林は音も立てない。高く薄い雲の浮かぶ青空と向こうに海が見える。

14時30分、ここは陸前高田市気仙町 国道45号仙台起点150.2km地点です、と標識があるパーキングエリアに停車し、下方を見る。周囲を林に包まれた小高い位置に瓦屋根の人家が数軒見えるが、低地の大型の鉄骨製の施設は破壊され、瓦礫が連なっている。

[森] 二人とも無言のままひたすら北上します。思考は停止状態です。突然、テレビで見慣れた八木澤商店の建物が現れました。陸前高田です。気仙川を挟んで広がる瓦礫の平野でした。

45号線・東浜街道、通りの左側先に2階建の建物が見えてくる。側面壁に青いペイントでヤマセン醤油と書かれた醤油原料処理工場だ。その屋上にあった3階建屋部分は消失している。津波の高さはそれ以上にあったということか。手前の妻入りの土蔵もその先にあったなまこ壁の平入りの店蔵も、それらに挟まれてあった敷地入口の門も見ることはできない。醤油原料処理工場と幾つか以外に街道沿いには建物は残っていない。工場の開口部は鉄骨が剥き出し、屋号ヤマセンと株式会社八木澤商店の壁面文字が履け落ちている。門を入った先にあった黒い大きな石はそのままにあるが、事務所はない。奥にあった古くからの醤油醸造場もない。避難場所だといわれている裏手の山を写真に収める。シャッターを押すだけで、何かを思ったり、考えたりすることができない。夜にお会いする河野さんが、悲しいのに涙が出ない。カラダのどこかに空洞ができたみたいでと語られるが、そんな気持ちだったのだろうか。

何も考えることができず二人とも無言のままに、水産加工業の産直グループ・上野氏のところへ向かう。

[森] 更に北上し大船渡市に入ります。地形の妙かこれまでの海岸地域とは違い広範囲な決定的な破壊ではなく、海岸から400mほどが津波の被害を受け、道路一つ隔てて明暗が分かれたようです。

16時、大船渡市大船渡町に上野孝雄社長・悠記子夫妻と孝行・由美夫妻を訪問する。

産直グループの水産加工場では、地震発生直後は小刻みな揺れに始まった。孝行氏が急いで場外に出ると15秒で地割れが起こり、その幅は30cm以上もあり、そこに落ちるかなと思ったそうである。その内に波が引き始めたので、従業員に急いで車で高台まで退避を指示する。15時5分に津波の第一波が、その直後に二波が堤防の上5mに、三波も直ぐに押し寄せた。湾の北側と南側のそれぞれから押し寄せる津波の高さは15〜20mになった。高台に逃れた孝行氏は一部始終を見ていた。全て奪われ、全て終わった、これまでのやってきた事が無に帰したと思ったと言う。

上野社長はこれからのことを積極的に話される。今、国が水産施設工場を無償で使えるように整える話がある。船は一割も残っていないから、5人位の漁民のグループでシェアして使うことになるだろう。
こんな状況では言いにくいことだが、しかし、言わなければならないと思う…防潮堤を堅固に造ったり、港湾を過剰に整備すると、海を死なす。潮の流れが阻害されてヘドロがどんどん溜まり、そのヘドロが掻き混ぜられてメタンガスが発生し、湾が酸化し、海が死ぬんだよ。漁にも養殖にも良くないことだ。今回の津波でヘドロが外洋に押し出されたから、短い時間で良いほうに効果が出ると思う、と言われる。このことは翌日に訪問する気仙沼・唐桑の畠山さんも話された。昔から津波の後は漁場が良くなる、海は必ず回復するから、漁を再開する努力をするのだと。

福島第一原発事故による海洋汚染について尋ねると、毎年潮の動きは異なるから一概には言えないが、6月以降の北上してくる潮の流れは、注視しなければならないと考えているよ、とのこと。互いの情報交換を約束する。

最後に孝行氏がぼそっと実はすこし鬱状態なのだと言う。それでも、これからの仕事を考え、前に進むとはっきり話される表情に心配はないと感じた。この容易ならざる大震災下からの回復には、順々にゆっくりとそして確実に進むことしかないではないかと心の奥底から思う。
支援物資を手渡し、加工場に向かう。

16時50分頃、大船渡港の被害を見る。

17時過ぎに、陸前高田市広田町の産直グループの水産加工場に着く。
孝行氏が津波の襲来を見ていたという高台から入り江と鉄骨だけが残る加工場を望む。ほんとうに無残になにもない。下まで降りて浜に立つ。漁船が傾き海に沈みこんでいる。堤防の分厚いコンクリートが切断されている。加工場に入ると床は浮き上がり、捲くれている、鉄柱はひしゃげて建物がねじれて立ち残っている。外の松の木に木工細工の破片が引っかかっている。無残と言うしかない。


(中央に鉄骨だけが残る産直グループ水産加工場が見える)

18時30分 岩手県一関市大東町の八木澤商店・河野氏のご家族が避難されているお宅に着く。

この町で営業所を開き、協力関係にある秋田県の醸造元の醤油と味噌のOEM供給を受け出荷する。明日2日は、県内に向けて初出荷の便が出る日。再び陸前高田市に工場を構えるまではこの町が拠点になる。
御祖母様、会長河野和義氏と奥様の光枝氏、9代目新社長の河野通洋氏(37歳)と奥様の千秋氏、そして、札幌在住で夕刻に着かれた娘さんのひろみさんと挨拶を交わし、夕食にしよう、ワインにする、日本酒もあるよ、乾杯。この間のことをあれこれと話し始める。10mの防潮堤が駄目なら、20m堤をという者が来たが追い返しましたと笑いながらも苦々しそうに話し、どんな強固な堤防をつくるよりも、住居地域は高台につくり、津波が来ても仕事場から直ぐに逃げられるように避難所に向けて四車線の道路をつくる。これまで陸前高田の町があった平地は公園というのはどうかな、農園もつくりましょうよ、陸前高田だけでなく、三陸の被災地全部でつくるんだ、そして、全国から審査員に来てもらってどこがいいかと競い合うんだよ、いや、審査員は全世界からにしましょう、あっ、そうだな、それが良い、それも考えるかと元気に賑やかに話が進みます。仕込みの木桶も復活しますか、勿論考えているよ、しかし、先の話だな、今すぐにはできないよ。八木澤だけの話じゃないからね、陸前高田全体が復活しなければならないよ。

河野会長に震災直後のことを伺う。
あの日、東京にいたんだ。会合に出ていて、いつもなら終わったら少しは残って付き合いもするんだが、何故かすぐに新幹線に乗って帰路にいたら、トンネルで地震発生、揺れたよ新幹線、電気が消えて真っ暗な車内で震源地が宮城沖で大津波警報発令だと聞いた。3時間後に新幹線は上野駅まで戻ることになってね。ホテルはどこも満室、携帯電話はつながらない、公衆電話を思いついて親戚の家に連絡がとれ、やっとの思いでたどり着いたらTVで陸前高田のすさまじい状景が映されていた。全滅だ、と思ったよ。

東京に出張中だった河野氏と商品開発室長の大場氏の無事を確認できた時のことを忘れない。震災発生と同時に電話連絡をするが現地とは全く繋がらない中で、翌12日 13時過ぎに大場さんの携帯電話に繋がり連絡がとれたのだ。今、社長と東京にいる、陸前高田のこと、会社のこと、通洋氏(当時専務)と光枝氏(常務)のこと、従業員とその家族のことは何も分からない、しかし、津波が来るまで30分から以上はあったはずだ、避難はできたと思うのだが……

その後、ガソリン供給不足の東京から、東北自動車道は緊急車両しか走れない時に、どうやって陸前高田まで戻ったかを河野氏が語り続け、人のつながりがこんなにありがたいと思ったことはなかったと締めくくった。
河野一家と会社の人たちは、地震発生で津波が心配と感ずれば高台に避難することを日ごろから重ねていた。推定震度6弱の地震が発生したその日も、88歳の御祖母様を背負う長男の通洋氏の号令で、裏手高台の諏訪神社や水神様のある山へ駆け上がった。津波が蔵や工場、事務所、そして住居を押し流したのはその直後だったそうだ。寒い中で火を燃やし朝を迎えた。泥々の地に遺体が幾体もある様を見たとひとが言うのを聴いたというし、河野家の隣の奥さんが、車中に泥に埋もれ脚だけが見える遺体を、これは主人です、出してくださいと言われるが容易な事ではなかったとも。
河野会長のすぐ下の妹、佐々木由美さんは、未だ行方不明である。引き波で広田湾から、南の唐桑半島へ流されたのではないか、気仙沼市の遺体安置所に身長と骨格が合致するひとがいる、しかし、歯科医院も流されてカルテもなく、DNA鑑定をすれば判明するのだが、と聴く。

翌日は、営業再開後の初出荷で朝からさぞ大変だろうと思うのだが、22時を過ぎるまで、話が続く。会長ご本人は震災以降ワインを2杯にしている。酔うからね、と私達には酒を勧める。ありがたいことでした。

そのまま、宿をお借りする。

page top

■大震災53日目 5月2日(月) 晴一時曇 岩手県陸前高田市、宮城県気仙沼市、福島県喜多方市

5時、起床 洗面 身支度
7時、河野一家と朝食。埼玉県秩父の天然酵母パンとクッキーの「ラパンノワール くろうさぎ」からの支援パンセットを食す。皆さん、美味しいね、と

8時、会社から3kmも離れた瓦礫の下から見つかった経営理念
・私たちは、食を通して感謝する心をひろげ、地域の自然と共にすこやかに暮らせる社会をつくります。
・ 私たちは、和の心を持って共に学び、誠実で優しい食の匠を目指します。
・ 私たちは、醤(ひしお)の醸造文化を進化させ伝承することで命の環を未来につないでゆきます。
と書いた額を持った河野氏を写す。

(右画像:経営理念を掲げ微笑む河野和義氏)

[森] 翌日河野さんの娘さんに案内して頂き、避難された裏山の神社や気仙成田山に登りました。津波の跡は中腹まで、およそ20mはあると思われます。気仙町で残った家は2、3軒だそうです。瓦礫の中を元気で泳ぐ鯉のぼりが印象的でした。
奥のある地形では最初に破壊された建物の瓦礫が次々に次の建物を破壊していき、津波の高さも高くなるため内陸地ほど強い力が働くそうです。

8時30分、ひろみさんの案内で、再度、気仙町へ行く。
9時、陸前高田市気仙町・八木澤商店敷地で搾り器の脇に立つひろみさんを写す。赤色の八木澤商店のトラックが横転しているのを眼に留め、裏山の石段を登り、暖をとった跡や燃え残りの真っ黒な木々を視、広田湾、気仙川を一望し、町の全景などをカメラに収める。下に降り、山裾を歩き、ひろみさんは、以前に来たときには未だ通れなくて行けなかった友達の家のある奥の方まで進み、確かめているが、そこには何も建物の痕跡は見えない。痛んだ木々の枝に様々な破片を見るだけである。

すこし離れた小高いところにある気仙成田山の階段を登り、町全景を違う角度から見る。境内にボランティアの基地を設け活動している方へ、ひろみさんが支援の品を届けていると、元気そうな顔で、八木澤の麦が流れて来たんだろう、そこに芽を出しているぞと言う。河野会長が、会社理念に「生命」という言葉をもっと書き込むんだと言われたのを思い出す。

東北地方に低気圧の発達に伴う西から東へ秒速25〜30mの強風が吹き荒れる。瓦礫の山から木片やトタン板が乱れ飛ぶ。陸前高田市などでは飛来物によるけがを避けるため、瓦礫の撤去作業を取りやめたとニュースが報じている。

ひろみさんが札幌でポラン広場北海道のお店・らる畑を知っているとのことだったので、今度行ったら名前を告げてください、紹介しておきますよ。左様ならの挨拶を交わす。

附記 八木澤商店の3.11日録より
14時46分 地震発生
15時06分 気仙川の水が全て引き、津波が襲来の気配
15時23分 気仙川に波が逆流して来る、津波の第一波
15時26分 2つの防潮堤を越え、陸前高田市街に津波襲来
八木澤商店近くの姉歯橋が波をかぶる(右画像:八木澤原料処理工場)
15時28分 気仙川堤防決壊、市街平地全体が津波に呑まれる

附記 (株)八木澤商店 新社長河野通洋氏の新任挨拶文(2011年4月1日 抜粋)
新任社長のご挨拶として、考え方を述べさせて頂きます。いかに危機的な状況においても、今後経営の最高責任者として社員の意見に耳を傾け協力を仰ぎながら、全責任を背負う覚悟で再建をしていきます。その上で、変えることの出来ない事を受け入れる心の静けさと、変えるべきものを変えていく勇気。その二つを見分ける叡智を養う事を大切にしていきます。その可能性の源泉は、自ら情熱を持ち続ける事。その情熱こそが、絶望の中からかすかな希望を見つけ出す。そして、必ず道は開けていくと信じています。 
八木澤商店の新しい歴史を創り出して行く機会と捉え、社長に就任させて頂きました。今後とも皆様のご尽力とご助言が必要となってまいります。どうぞ宜しくお願いを申し上げ新任のご挨拶とさせていただきます。


(気仙成田山から陸前高田市気仙町を経て広田湾を望む)

11時、宮城県気仙沼市唐桑町西舞根・水山養殖場に畠山重篤氏を訪問する。

ホタテとカキの養殖業 (有)水山養殖場を営む傍ら、豊かな海を取り戻すために漁民による広葉樹の植林活動「森は海の恋人」運動を提唱し推進するNPO法人「森は海の恋人」代表の畠山重篤氏を訪問する。
舞根(もうね)湾が一望できる海抜25mの高台にご自宅がある。それは、お祖父さんが津波を研究した上で立てた建物だと聞いている。坂道を登りきると畠山重篤氏が数人の方と話をされている。挨拶を交わし、支援物資を手渡し、話を伺う。
電気がようやく3日前に、水道はまだ使えない、流水をバケツで運びタンクに入れて使っている。
養殖いかだには、50万個のホタテ貝と100万個のカキが成長していたが…

その日は早朝から、水揚げや出荷の仕事をしていた。最初は小刻みな振動だったのが、かなり揺れだした。棚のものが落ちだした。それからサイレンが鳴り出し放送で大津波警報と避難を呼びかけだした。従業員皆を帰して、しばらく海面を見ていた。30分程して潮が下がリ始めてどんどん引く、海底が見える。湾の三分の一以上は底が見えたね。そして、今度はものすごい勢いで海が盛り上がり押し寄せてきた。低い土地にある建物が潮に呑み込まれる。高校二年の時に、1960(昭和35)年のチリ地震津波を経験しているが、それとも全く違うとすぐに思った。第一波が引き、二波が来た。海面から10m以上もある海の壁が押し寄せてきた。自宅のある高台へ、坂道を駆け上った。第二波の引き波は、対岸にある知合いの家々や山の木を引きずりながらものすごい響きを立てて… これまでの仕事場や設備のなにもかもが呑み込まれてしまった。皆でとにかくもっと高いところへ逃れようと必死に裏の山へ上がった。難を逃れ、もどってみると自宅は大丈夫だったが、庭先の際まで波は来ていた。津波は海面から20m以上までを襲い、高台にある三軒だけが残った。


(津波の到達点に立つ畠山重篤氏 住居の庭敷地まで十数cmはない 海ははるか下方に)

船はどうなりましたか。小学生や中学生に海と森のことを知ってもらうため、気仙大工に造らせた和船はどうなりましたか。五隻全部なくなった。和船もなくなったよ。以前伺ったときには、県内は勿論、岩手・盛岡の学校からも体験学習に来て和船で沖まで出ているとお話されていましたが。そうだよ、随分たくさんの子供たちが来た、これまでで一万人以上になるだろうね。

その日の日暮れから、気仙沼は海岸の埋立地に造った重油タンクに火がついた。何度も爆発音が街から聞こえ、夜には空が赤くなった。大火災になったんだ。(9月12日追記:火災原因は、家庭用プロパンガスボンベからLPガスが漏洩して発火、車両からの発火、津波に押し流された重油タンクから漏洩した油が海を被い、そこに混ざる可燃性瓦礫からの発火などが確認されている)街の福祉施設にいた母親は亡くなった。三男は警報で外洋に脱出しようとして、途中で波に流されて岸近くで船を捨て泳いで大島に逃げることができた。そして、3日目に戻ってきたとのこと。

畠山氏は1943(昭和18)年生まれだが、話の終わりの方で小さな声でしっかりと話された。これまでも波乱万丈の人生だったが、もう一度海の自然回復力を信じて、再興をさせるよ、そして、今年の植林も予定していますからね、と。

陸前高田の河野さんのことを伝えると、元気だったかと顔に笑みが浮かんだ。連絡方法を記して渡す。

畠山氏が、息子さん、お孫さん共々にお元気で活躍をされるようにとご挨拶して別れを告げ、来た道を戻る。大津波と大火災で瓦礫と化した住宅街を再度進み、気仙沼湾の奥に位置する鹿折地区を確かめる。橋のたもと近くにエントランスが崩れ、窓ガラスがどれも割れている二階そして一部三階建ての建物が建っている。畠山氏の御母堂様が居た福祉施設であるが、四十数人の犠牲者がでたとのこと。太平洋戦争末期、二歳の畠山さんを背負って上海から帰国したという方に、お会いしたことはないのだが…心の内で手を合わせた。

[森] 気仙沼市は津波の後の火災で赤茶けた鉄骨や車が無残な姿でした。水産加工所の密集する町々が壊滅的な状態でした。

附記 地元気仙沼市在住の歌人熊谷龍子氏の作『森は海を海は森を恋いながら悠久よりの愛紡ぎゆく』より、森は海の恋人運動と命名

附記 5月3日 17:41 水山養殖場 畠山耕氏より、NPOポラン広場東京佐藤事務局長にeメールが届く。
昨日は、沢山の天然酵母パンなどを頂き、誠にありがとうございました。今朝、家族皆で美味しくいただきました。普段の配給の菓子パンに疲れた胃袋が、久しぶりに喜んでおりました。今後とも三陸、ならびに森は海の恋人運動、水山養殖場を宜しくお願い致します。

東北自動車道から磐越自動車道で、17時に福島県喜多方市熱塩加納町の有機農業研究会・ 緑と太陽の会代表原源一氏を訪問する。副会長の遠藤彦一氏も交えて、情報交換後、会食を120分。話は、福島第一原発事故の農業と農作物に及ぼす影響のこと。会津は距離的にも地形的にも心配のない地域になるのだが、お二人共に秋の米について消費者の理解を真剣に話される。正しい情報を消費者に届けることを約束する。そして、遠藤氏は、30年近く前のポラン広場東京の若い連中がどんなに無理難題をふっかけたか、農薬を使うな、除草剤も駄目だと言った時には今で言うキレタだったと面白可笑しく話される。ポラン広場東京を代表して軽く謝罪するが、時はそんなことを押し流し、より深刻な状況に至っている。ひとつは農家の高齢化と後継の低迷であるし、現により深刻な環境破壊と汚染である。お互いに手を差し伸べてつながりをより強くしましょうとしっかり握手する。遠藤氏曰く、誤解していたかな、見直すよ(微笑)

(6月に見ごろを迎える熱塩加納町のシンボル:ヒメサユリ)

21時、ハードスケジュールだったか、すこし宿で休むと言っていた森さんと最後の痛飲。
三陸の水産物の模様が現地に来ることで分かりやすくなった。素材原料の手配は事務だけでなく、動くことで可能性があることも良く分かった。復旧・復興・復活と皆が各地でそれぞれに考え、行動していることにも感心すると同時に、又、来るよ、阪神淡路とも違っている、復興の様を視たいと。

宿泊は、喜多方市のビジネスホテル。ウサーマ・ビン・ラーディン殺害をTVで知る。
0時、就寝、爆睡に陥る。

page top

■大震災54日目 5月3日(火) 晴 福島県須賀川市

5時30分、起床
7時 朝食 / 7時45分 出発
9時30分、JR郡山駅で森さんと別れる。森さんは新幹線と空路で神戸へ、16時に自宅着。
10時30分、福島県須賀川市の太田酢店訪問し、太田実氏と奥さんに会う。

須賀川市は震度6強で、市役所は建て直しが必要な規模の被害で立入禁止状態とのこと、帰りに寄ってみると、窓ガラスは全て割れ、確かに無人状態。
太田氏の自宅は、大変な揺れで本箱から本が飛び出した。奥様はこんなに沢山の本があったのか、片付けるのが大変と思わず愚痴をこぼす。

太田酢店の工場敷地には陥没が出来たため、ダンプで土盛りをした。隣家は傾いている。住人は避難したとのこと。工場・事務所建物や設備等には被害はなかったが、醸造タンクが台座から外れて傾いたり、揺れで酢があふれ、床上に2cmになった。あふれた酢の量は、12,000リットル強になった。水洗いを重ね数日後に落ち着く。床は今後も、放射線を測定すると同時に水洗いを継続する。

(右画像:台座がはずれたタンクの脇に立つ太田実氏  ブレているのは撮影中に余震か!?)

米軍使用の20万円のガイガーカウンターを購入し、研究所で機器精度を確認してOKとのこと。太田氏は、この機器を使い、浪江町・飯舘村等の知合いのところで土壌・野菜・建物などの放射線量を測定する。
仕事では、工場内や出荷前の商品(瓶)を測定し、出荷の際には、測定値の資料を付けることにしている。

太田氏は、研究熱心な方で、酢を利用した農業資材で考案中の油虫防除用と植物成長促進用をサンプルに分けてもらう。使ってみてください、姿良く育った野菜は味も良いのですよと嬉しそうに話される。同感である。

12時、帰路に就く、渋滞に遭遇せず。
16時30分、事務所に着く。

[森] 私に出来ること・・・記憶に留め、忘れないこと・・・
1年後復興の芽を確認するため今回のルートをもう一度訪れるつもりです。
壊滅と判断していた国産わかめ、色々と手を講じていましたが、奇跡的に助かった加工所と繋がりました。比較的早く復興できるとのことですが、これからまだ色々な問題を乗り越えなければなりません。ただ、国産は数年間は無理とのこれまでの情報で、(株)げんきタウンの製品づくりが一時避難的に海外産使用も止む無しとの方向から1年以内の再開という方向に確信を持てただけでも朗報でした。

最後に、全行程1600km余りを一人で運転していただき、たくさんの方々にめぐり合わせていただいた神足代表に心から感謝を申し上げます、お疲れさまでした。 

  page top
   
 
 
« return
 
page top

ポラン広場東京 Home | 定款/入会案内 | サイトのご利用について | リンクについて | お問合せ

Copyright©Nonprofit Organization  Polan Hiroba Tokyo. All Rights Reserved.

[ ポラン広場東京  通信欄 ]
POD通信(農産)POD通信(日配・加工)商品DB生産DB広場ツール広場リポート
てくてく[飯田市]CAMBIO[岡谷市]じねんや[軽井沢町]POD-KIVAつくば店[つくば市]
はるさん商会[板橋区]Boot[羽村市]あひるの家[国立市]じんじん[町田市]
POD-KIVA青梅店[青梅市]
七ツ森[上尾市]ポラン広場の通販