午後の訪問地に向かう。国道398号で女川町回りに進みたいのだが時間に余裕がない。スタート部分を三陸自動車道で北へ30kmの県北・岩手県境の登米市方面(震度6強被災地)に進み、12時30分頃に国道398号に出る。山側から東に志津川湾を目指す。山の中に突然の光景が広がる。瓦礫が下方にどこまでも連なり、今、船腹に「八重丸」と読める小型漁船を認め、車を停止する。息ができず、考えることができない。周りは森林なのに、この光景は何か。
[森] 志津川に添って398号線を海岸に向かいます、道の両側は林が続き山間部を抜けかかると瓦礫の山が突然現れ、その中に漁船が点々としています。遠くの薄茶けた広がりの中、赤い鉄骨を剥きだした南三陸町合同庁舎と志津川病院の建物が見えます。ナビは踏み切りを指示しますが右も左も線路は敷石ごと剥がされて流れ、線路のないトンネルが薄もやの中に見えていました。
宮城県南三陸町に入る。三階建て鉄筋コンクリート造りのアパートの屋上に車が車輪を天に向けて載っているのを見る。ゆっくりと下勾配の道を降りて行き、左に八幡(はちまん)川が流れ、右側の瓦礫の街に公立志津川病院を見る。志津川湾からの大津波が海岸から押し寄せると同時に、八幡川も上流に凄まじい勢いで押し上げられ、間もなく川からの濁流が街に流れ込み、海からの津波とひとつになり陸地は水没し、町は消滅してしまった。森さんが、報道で映し出された病院の模様を話している。今は人の気配はない。ここに来るまでも、高台に残った住宅地の住民の車だろうか、その方角からか或いはその方角への車が走る時だけ音がする。ひとも犬も猫も鳥もいない。風が吹けばその風の音だけが響く。いまはとにかく何も音をたてるものがないのだ。
南三陸町は、海岸の地形から津波の影響を受けやすく、これまでも、平安前期869年の貞観地震大津波や1896(明治29)年の明治三陸大津波、1933(昭和8)年の昭和三陸大津波、1960(昭和35)年のチリ地震津波によって大きな被害を受けている。3.11東北地方太平洋沖地震は貞観地震以来の1000年刻みの地殻変動だった。
志津川湾に沿った国道45号線にT字路を左折して入る。ここより少し南の宮城県牡鹿半島から国定公園であり、いわゆる三陸海岸の始まりである。そこから国立公園指定の岩手県沿岸部のリアス式海岸を経て隆起海岸と変化し、青森県南東端までの約600kmの海岸線が続く。
途中13時、真正面に南北に走るJR東日本・気仙沼線の陸橋が見えてくる。右手の小高い位置に駅跡があり、十数本の橋脚の上を走るレールは3ヶ所で崩落している。周囲の緑林は音も立てない。高く薄い雲の浮かぶ青空と向こうに海が見える。
14時30分、ここは陸前高田市気仙町 国道45号仙台起点150.2km地点です、と標識があるパーキングエリアに停車し、下方を見る。周囲を林に包まれた小高い位置に瓦屋根の人家が数軒見えるが、低地の大型の鉄骨製の施設は破壊され、瓦礫が連なっている。
[森] 二人とも無言のままひたすら北上します。思考は停止状態です。突然、テレビで見慣れた八木澤商店の建物が現れました。陸前高田です。気仙川を挟んで広がる瓦礫の平野でした。
45号線・東浜街道、通りの左側先に2階建の建物が見えてくる。側面壁に青いペイントでヤマセン醤油と書かれた醤油原料処理工場だ。その屋上にあった3階建屋部分は消失している。津波の高さはそれ以上にあったということか。手前の妻入りの土蔵もその先にあったなまこ壁の平入りの店蔵も、それらに挟まれてあった敷地入口の門も見ることはできない。醤油原料処理工場と幾つか以外に街道沿いには建物は残っていない。工場の開口部は鉄骨が剥き出し、屋号ヤマセンと株式会社八木澤商店の壁面文字が履け落ちている。門を入った先にあった黒い大きな石はそのままにあるが、事務所はない。奥にあった古くからの醤油醸造場もない。避難場所だといわれている裏手の山を写真に収める。シャッターを押すだけで、何かを思ったり、考えたりすることができない。夜にお会いする河野さんが、悲しいのに涙が出ない。カラダのどこかに空洞ができたみたいでと語られるが、そんな気持ちだったのだろうか。
何も考えることができず二人とも無言のままに、水産加工業の産直グループ・上野氏のところへ向かう。
[森] 更に北上し大船渡市に入ります。地形の妙かこれまでの海岸地域とは違い広範囲な決定的な破壊ではなく、海岸から400mほどが津波の被害を受け、道路一つ隔てて明暗が分かれたようです。
16時、大船渡市大船渡町に上野孝雄社長・悠記子夫妻と孝行・由美夫妻を訪問する。
産直グループの水産加工場では、地震発生直後は小刻みな揺れに始まった。孝行氏が急いで場外に出ると15秒で地割れが起こり、その幅は30cm以上もあり、そこに落ちるかなと思ったそうである。その内に波が引き始めたので、従業員に急いで車で高台まで退避を指示する。15時5分に津波の第一波が、その直後に二波が堤防の上5mに、三波も直ぐに押し寄せた。湾の北側と南側のそれぞれから押し寄せる津波の高さは15〜20mになった。高台に逃れた孝行氏は一部始終を見ていた。全て奪われ、全て終わった、これまでのやってきた事が無に帰したと思ったと言う。
上野社長はこれからのことを積極的に話される。今、国が水産施設工場を無償で使えるように整える話がある。船は一割も残っていないから、5人位の漁民のグループでシェアして使うことになるだろう。
こんな状況では言いにくいことだが、しかし、言わなければならないと思う…防潮堤を堅固に造ったり、港湾を過剰に整備すると、海を死なす。潮の流れが阻害されてヘドロがどんどん溜まり、そのヘドロが掻き混ぜられてメタンガスが発生し、湾が酸化し、海が死ぬんだよ。漁にも養殖にも良くないことだ。今回の津波でヘドロが外洋に押し出されたから、短い時間で良いほうに効果が出ると思う、と言われる。このことは翌日に訪問する気仙沼・唐桑の畠山さんも話された。昔から津波の後は漁場が良くなる、海は必ず回復するから、漁を再開する努力をするのだと。
福島第一原発事故による海洋汚染について尋ねると、毎年潮の動きは異なるから一概には言えないが、6月以降の北上してくる潮の流れは、注視しなければならないと考えているよ、とのこと。互いの情報交換を約束する。
最後に孝行氏がぼそっと実はすこし鬱状態なのだと言う。それでも、これからの仕事を考え、前に進むとはっきり話される表情に心配はないと感じた。この容易ならざる大震災下からの回復には、順々にゆっくりとそして確実に進むことしかないではないかと心の奥底から思う。
支援物資を手渡し、加工場に向かう。
16時50分頃、大船渡港の被害を見る。
17時過ぎに、陸前高田市広田町の産直グループの水産加工場に着く。
孝行氏が津波の襲来を見ていたという高台から入り江と鉄骨だけが残る加工場を望む。ほんとうに無残になにもない。下まで降りて浜に立つ。漁船が傾き海に沈みこんでいる。堤防の分厚いコンクリートが切断されている。加工場に入ると床は浮き上がり、捲くれている、鉄柱はひしゃげて建物がねじれて立ち残っている。外の松の木に木工細工の破片が引っかかっている。無残と言うしかない。
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