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ぐうたら百姓のすすめ … ぐうたらの独り言
  11.ぐうたらの独り言
     
   

まだいろんな野菜が残っています。野菜たちが「わたしも書いてちょうだいね」と、まるで言ってくるような錯覚におちいることもありますが、このあたりでひとまずお休みにしましょう。あまり詳しく書くと、せっかくの「ぐうたら」が、なんだか「精農」に変わってしまいそうですから。
 

きめこまやかな自然観察能力を鍛える

さて、わたしが描いてきたぐうたら百姓の、おおよそのスケッチがおわかりいただけたでしょうか。まだ、病害虫の防ぎ方や、被害をかわす方法、病虫害がでなくなるような方法など、トンデモナイ仰天防除方法があるのですが、またのお楽しみに。

ところでこれまで書いてきたことは、けっこうわたしの体験がはいっています。しかし、決してわたしだけの体験だけでできたわけではありません。これまでの内容が書けるように、わたしを導いてくれたのは、北海道から沖縄まで、日本全土にまたがる有機農業の先駆者の方々でした。その方たちは、わたしを有機農業へと目を向けさせてくれ、夢中にさせてくれた人たちでした。そうした先駆者の努力なしには、書けなかったと思います。今さらながらに、頭の下がる思いがします。

本業そっちのけでも、人間というものは自分がほんとうにしたいことへ目は向いてゆくものです。わたしにとってほんとうにしたいことは、有機農法で作物を栽培する百姓です。今でもその希望は捨ててはいません。なぜ捨てられないかといいますと、現今の大学が置かれている状況の、あまたある矛盾が、本来農学のあるべき方向にわたしを駆り立てるからだと思っています。

有機農業という言葉を口にしただけで、大学ではいまも異端であるのが、哀しいけれど現状なのです。欧米ではすでに、Organic Farming が市民権を獲得し、有機農業に関係する試験研究がさかんに進められています。ところが残念ながらわが国のアカデミズムは、いまだに見向きもしていません。

自由化と国際化の波をうけて日本農業がこれほどにまで後退し、さらに就農人口が減少しつつあり、先進国の中でも際だって自給率が低いという事実を考えるだけで、正直眠れない夜があります。農学栄えて農業滅ぶという言葉がありますが、農業の現状にたいして、はたして農学がどれほどの役割を果たしうるものなのか、わたしには疑問に思えて仕方ないのです。その疑問はバイオテクノロジーが大学で幅をきかせるほど、なおさら深くなり、業績至上主義に狂奔するアカデミズムの虚しさがいっそうつのるのです。

「有機農業で、はたして食っていけるのか」、「経済性はどうなのだ」と、よく問われます。ところで経済というのは、後ほど述べますが、化石燃料があってはじめて成り立つものなのです。その意味では、農業に経済性を導入することこそが、誤りだといっていいでしょう。なぜなら農業は、太陽エネルギーを出発点として、水と炭酸ガスとから有機物をつくりだしてくれている植物があってこその本源的な生産手段だからです。

乾燥地帯で、年間降水量がわが国の半分もない欧米では、病虫害がはるかに少ないのです。倍以上も被害を受けやすいわが国で、はたして有機農業は可能なのだろうか、と疑問に思われる方が少なくありません。わたしがお答えします。十二分に可能です。ただし、それを可能にするには、人間の智慧をかなり駆使しなければなりませんし、なによりもきめこまやかな自然観察能力を鍛えなければなりませんが…。

自然資源は有限なのだ
 
自然資源は有限である。この公理は、われわれ自然科学の徒にとっては自明の理です。昔からそうだったはずなのです。ところが近代経済学はそうではなかったのです。一国の経済状態を上向きにしさえすればよかった。つまり、一国の経済だけを考えるかぎり、「生産」と「消費」を組み合せて、富めばよかったのです。足らないものは輸入すればよい。足らないところへ付加価値をつけて輸出すればよい。自国にない原材料は輸入すればよい。生産効率の悪いものは切り捨てればよいのです。それが経済原理であり、経済功利主義といえます。こうして、経済だけは「自然資源が有限である」という公理を自明のものともせず、一国の利益だけを優先させれば、それだけで世界がまわると信じていたのです。いや、今でもそう信じているでしょう。この手の話は、毎日のように新聞の片隅に登場してくるので、それこそ耳タコ、じゃなかった目タコになりそうですね。

ところが、国という概念を脱ぎ捨ててみると、一国などはどうでもよくなるというか、そんなものに固執するべきではないことに気付くのです。それはなぜか? 地球自体が、閉じた世界であり、決して無限の世界ではないという事実です。「有限の経済学」、それがなければ、二十一世紀のなかばにして、南北問題を契機とした悲惨な現実を甘受しなければならないでしょう。

なぜ食糧危機がくるのかというと、まずもって現代農業を支えている化石燃料が底をつきはじめます。食糧生産のコストは大幅に増加するでしょう。経済功利主義の立場では、コスト高の農薬、化学肥料を使いまくる農業は、割に合わない食糧生産として、以ての外だという皮肉な結論に達することでしょう。有機農業のようにローコストではありません。そこで私たちが忘れてならないのは、「地球にふり注ぐ太陽エネルギーの範囲でしか、地球上のすべての生物は生きられないのだ」という、厳然たる事実なのです。

生物性をかえりみない現代農業

現代農業について、さまざまな論議が交錯しています。論議の軽重、大小を問わずに、思いつくままにあげてみました。いわく、現代農業の批判。新農業基本法、自給率の低下、中山間地の切り捨て、遺伝子組み換え作物、地力の低下、後継者不足、バイテク、ポストウルグアイラウンド、デカップリング(*1)、減反、農政の後退(所得補償や補助金)、国際競争力。ここに列挙した問題すべてが深刻です。

なぜこれほど深刻にならざるをえないのか。その原因としては、農業というのが土の生産力をぬきにして考えられないからではないでしょうか。農業は生産力を維持するために、土壌の肥沃度にたよらなければならない、という制約をつねにかかえているのです。土にたよらず、作物を育てようとすれば、水耕栽培しかありません。それがどんなに手間と金を必要とするものか。石油が安く買えるうちはいいかもしれませんが、高騰すればもうダメです。それこそがあやまてる経済功利主義なのです。

土にもどります。現代農業では土壌の肥沃度を全窒素、全炭素、塩基交換容量、塩基飽和度、各種の交換性塩基、pH、EC(*2)などによって判定します。わたしもある程度の参考にはしています。しかし、こうしたデータはあくまでも参考にすぎません。なぜかというと、生物性がまったく考慮されていないからです。

現代農業における土壌肥沃度判定法は、生物である作物を育てるというのに、生物とはまったくかけはなれた存在としてしか土壌をみていないということでしょう。つまり現代農業における土とは、作物に必要な養水分を保持し、作物の根系が土壌をだきかかえて姿勢を維持するための支持体としての意味しか考えていないようです。肥沃度の判定によって、カルシウムが足りないとか、過燐酸石灰を入れろとか、やれ苦土石灰だとか診断がでてきます。診断のどこをみても、生物性のかけらもないのです。

生物性をかえりみない現代農業は、土を疲弊させます。土が疲弊するということは、土壌の生物性が貧弱なものになることに他なりません。土壌の生物性が貧弱になった現代農業の土では病害虫がはびこります。それはあたかも薬漬けになった清潔であるはずの病院に、多重薬剤耐性をもった病原菌が出現するのとよくにた構図ではないでしょうか。

現代科学が病害虫をはびこらせる温床になっていることは、レーチェル・カーソンの名著『沈黙の春』をいまさらひもとかなくとも、すでに常識となっているはずなのに、現代農業はそれすら無視しています。団粒構造がこわれた土は雨に弱く、流亡しやすい。乾燥しやすく、保水力もない、作物にとってはよくない土になってしまうのです。


土は生きているのだ
 
土というものの本質を、現代農業がはたして理解しているのだろうかと、疑ってみたくなります。作物と土壌、そして土壌生物との間には、われわれがまだほとんど知らないといってよいほど密接な関係があり、深いところでつながっているように、わたしには思えるのです。

トマトを連作しているのにまったく連作障害がおきない土壌とか、エンドウマメのように激しい連作障害がおきる作物を、毎年平然とつくっている農家があります。有機農業を30年近く見続けてきたわたしには、なぜそんなことができるのかがよくわかります。そうした土壌の共通点は、生物性が豊かであることに尽きるのです。言い換えると、土が生きているのです。

肥沃な土には一グラムの土壌に一億もの微生物が棲息していますし、ミミズ、ヒメミミズ、ササラダニ、トビムシ、ヤスデ、クモなど多くの土壌動物が生きています。それらが土壌の団粒構造を発達させ、養分保持能力を高め、病害虫の抑止能力として機能しているのです。そうした豊かな生物性の源は、作物がつくりだす有機物です。

地球をタマネギにたとえたら、いちばん外側の薄い皮にあたるのが土。本当は薄い皮にも満たないでしょう。だって表面から数メートルだけが、生物の生きている範囲なのですから。その薄っぺらい土にこの世のすべての生物が生きているのですから。土というのは、考えてみればものすごい存在です。
 
わたしが学生だった頃の、土壌学の教科書の冒頭を今でもよく覚えています。いわく、日本の土壌は酸性土壌である。活性のアルミニウムが多く、これがリン酸を固定するので、酸性土壌ではリン欠乏が生じる。したがって、わが国の耕地土壌の改良には、リン酸資材の大量投与と、カルシウムの投与による酸性土壌の矯正が不可欠である…云々。

しかしよく考えてみると、リン欠乏が起っても不思議でない土壌に、何も生えていないのかというと決してそうではないのです。木も草も旺盛に生育しているではありませんか。では彼らにとってリンは必要ないのか?そうではありません。根圏によく発達した菌根菌(*3)が棲息し、土壌生物も多いのです。それらが、貴重なリン資源を効率よく使っているのです。つまり、生きているリン資材として彼らは機能しているといえます。

現に、カラマツ林を切り拓き、造成した畑が、数年で熟畑になった例をわたしは知っています。pHはもちろん低くてリン酸吸収係数は2000をこえているし、窒素・リンをはじめとして、可給態(*4)の養分は熟畑というには程遠いのです。それなのに作物は実によく育ち、いきいきとしています。病害虫はまったくといってよいほどみかけないのです。農業試験場の人たちがびっくりして、首をかしげましたが、まったくわからなかったのです。いや、彼らの知識では到底理解できない現象なのかもしれません。

ほんとうの環境保全型農業
 
現代農業にも反省がみられるのか、最近は「持続可能な農業」とか「環境保全型農業」とかいう話をよく見聞きするようになりました。でもちょっと考えてみてください。今さらなにが持続可能だ!なにをいまさら環境保全だ!と言いたくなるのです。

半世紀前までは、伝統的農業は世界中に存在し、そこでは数千年にわたって持続可能な環境保全型農業をやってきたではないか、そう私は思うのです。それを先人の知恵とみなさずに、原始的だとか、経済効率が悪いというだけの理由で切り捨ててしまったのは、現代科学や近代経済学ではなかったのかと、文句のひとつも言いたくなろうというものです。
 
還元主義という言葉があります。自然科学ではだれもが常識としてうたがわない公理(?)として、「未解明の現象を構成する、個々の事象を次々と解明してゆけば、やがてそれを総合することによって、かならず自然が解明される。つまり網羅的に解明することによって、かならず『還元』、つまり元にもどって全体の理解がすすむのだ」という「いわれ」があります。それを還元主義というのですが、哲学用語辞典をみると、還元主義の説明の最後に、「…いまだに元に戻って証明なり解明がなされた事例はない」と、皮肉にも書いてあります。
 
わたしたちは、悪しき還元主義の虜になってはいないでしょうか。「解明」し、自然を「克服」できるようになれば、必ず豊かな社会がやってくる。という言い訳に、むかし流行った言葉でいうと「共同幻想」(*5)におもえて仕方ないのですが。

ほんとうの環境保全型農業というのは、大昔の植物が固定してくれた太陽エネルギーの缶詰、つまり化石燃料を大切につかってゆくことなのです。

団粒構造が発達した膨軟な土になれば、耕耘するときのトラクターの燃費だってよくなるのです。土が健康になって、育土ができたなら、病害虫は減るし、余分な草も生えなくなってきます(*6)。こうなれば、農薬をぶっかける必要もなくなるのです。農薬・化学肥料のどちらも、化石燃料のエネルギーでつくられるのです。こうした具体的な到達目標を掲げないで、環境保全型農業はないでしょう。絵にかいたモチか、たんにその場しのぎの言い逃れでしかないのです。

二十一世紀の「土」の地平
 
つまりは「現代農業」をどう変えてゆくか、に他なりません。それには、あたらしい科学のパラダイム(理論的枠組)も必要なのですが、それは後回しにするとして、以前に米合衆国農務省が出版した大部のレポートを翻訳したことがありました。タイトルは『代替農業』で、-永続可能な農業を求めて-という副題がついていました。元のタイトルは 『Alternative Agriculture 』、すなわち、「もうひとつの新しい農業」とでも訳したほうが適当だったのですが。

その本は、「伝統的な農業を培ってきた農家の知恵や技術には今さらながら目を見張るものがある。それを現代農業技術といっしょに生かせれば、来たるべき世紀の新しい農業が志向できるのではないか?」という主旨でした。

そこには新しい技術として、次のような方策が示されています。たとえば、

・センチュウを防除するのに農薬を使わず、クロタラリアを使う。この植物の根にセンチュウが口を突き刺すと、根が膨れ上がってセンチュウを殺してしまう。… 罠植物
・土壌表面にできるだけ刈り取り残滓をのこし、これでもって雑草を抑えるような耕起方法と機械の開発。
・輪作、それも5年、7年といった長期完結型の輪作体系で、特定の作物につく病害虫の発生をおさえる。… 時期をずらしたフェイント農業

これらはまさしく先人の知恵ではなかったか、とおもいます。私がかつて教えを受けたパイオニア農家の技術改良そのものではないのか、そうおもわずにはいられません。私のぐうたらにも通用するべき中身ではないでしょうか。

おわりに
 
以前、「ゾウの時間、ネズミの時間」という本を読んだことがありました。名著です。読後におもったことは、人間が生きている寿命の時間だけを基準として、すべてのものをみてはいけないのだ。すべてのものがそれぞれ固有の時間を生きているのだから、それを見届ける余裕を人間が持たないと、本質はみえてこないのではないか。還元主義の誤りもそこにあるような気がしてならない、というものでした。

「土」の来た道は気が遠くなるほど長い距離であり、おなじだけ長い時間が経ったにちがいない。その土を、わずか半世紀にもみたない半端な科学技術で理解しようとか、改変しようとかいうのは、人間の傲慢なのだろう、と私は思います。
 
作物を育てるには、作物の時間を知らねばならなりません。作物は土と長い時間をかけてつき合ってきたのだから、そのつきあい方を私たちが学ばねばならないように思えるのです。そういうゆっくりとした穏やかなつきあい方を、そろそろ人間は身につけてもよいのではないか。そんな気がします。

「自然は無駄ばかりするが、肝心なところはしっかり無駄をしない」(*7)

「地球上のすべてのものには存在する意味と意義がある」

「生物は、単独では種として存在できない」

パラダイムとまではゆきませんが、そして決して格言ではないつもりですが、わたしがみてきた自然は、そう教えてくれたと思っています。もう一度、土とのつきあい方を身につけたい。それが今、いちばんわたしのしたいことなのです。  (了)

   
   

(*1)デカップリング(decoupling) … 米国の農業保護削減政策で、農業生産調整を義務づけずに、農家に所得補償をする不足払い方式が元だが、農業者への所得補償の方法として、ヨーロッパでは積極的な保護策として種々推進されている。
(*2) EC(electric conductivity) … 電気伝導度。土を一定の水でかきまわし、水に溶けてくる塩類の量を電気の流れやすさで測定する方法。ハウス土壌では、これで塩類の集積度を診断する。
(*3) 菌根菌(きんこんきん) … カビの菌糸が植物の根の中に入り込み共生しているもの。植物根の代わりに養分吸収をしてくれる。代表的なのはラン科植物につくラン菌で、フワフワした白い根は菌糸の束。ふつうの植物でも養分の少ない土地では菌根菌がよく根について共生する。
(*4) 可給態 … 植物が吸収できるかたちになっている養分のこと。土の中のアルミニウムとリン酸が結合すると不可給態という吸収できないかたちになってしまう。
(*5) 共同幻想 … 作家・吉本隆明(吉本ばななのお父さん)の言葉。み〜んなが知らないうちに本当(現実)と思って錯覚している幻のこと。
(*6) 育土ができると草の種類が変わってくるのと、土が軟らかくなって、スポッと抜きやすくなる。畑にはやはりマメ科の牧草が生えている方がいいが、これも生えすぎるとダメで、加減を要する。
(*7) うまく無駄を使い分けるということ。「どうでもいいところは知らん顔して放っておき、肝心なところだけはしっかり無駄せずに調節します」という意。

   

 

 
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